仕事を終えた臨也が帰宅すると、そこにの姿は無かった。部屋にいるのは淡々と仕事をこなす波江だけだ。
「あの子なら外に出かけたわよ」
「俺の許可無しに外に出すなって言わなかったっけ?」
臨也の疑問に答えるかのように話す波江。その波江に臨也は苛立ちを隠せなかった。
を外出させるときは臨也の許可が必要なのだ。それを知っていながら、昨日と同じように波江はを外出させた。言うことを聞くような女ではないと思っていた臨也だが、自分に支障が出るようなことをこうも好き勝手に続けられると、さすがに怒りがこみ上げてくる。
「言っただろ、勝手に外に出すなって」
「あの子が出たがったのよ。会いたい人がいるって」
「…会いたい、人?」
すぐに見当がついた。――平和島静雄だと。
の記憶が戻りつつあること、そして、今日ここに静雄が来ていたことを知らない臨也は、昨日消したと思った記憶はうまく消えず、は昨日会った静雄にもう一度会うために池袋へと向かったのだと考えた。
――今まではきちんと記憶は消されていた。何故今回に限って消えないんだ?直接会ったから?…ははっ、まだの中でシズちゃんの存在はでかいってこと?
そんなの、認めたくないね。の中に存在していいのはシズちゃんじゃない。俺だ。俺だけだ。
「ちょっと、血が出てるわよ?」
臨也の手からぽとりと落ちる赤い雫。表情には出ていなくとも、態度には表れている苛立ち。さすがの波江も臨也が気になった。
「…今日はもう帰ってくれないかな」
「そう。――なら、お言葉に甘えさせてもらうわ」
まだ昼間だと言うのに、臨也は波江を強制的に帰すことにした。大方予想はついているのだろう、波江も臨也に理由を問うことなく荷物を持って出て行った。
――嫌な女。心中で吐きだしながら、強く握りすぎた拳を開いた。爪の痕がくっきりと手のひらについて、血が流れている。それでも、臨也は構わなかった。怪我などよりも気になることがあるのだ。
――シズちゃんに会って、何を話したんだ。
将棋盤の外に置いてある白のクイーンを手に取った。真っ白なクイーンは、臨也の血が付着して赤くなる。それに何かを見出したのか。臨也は白い紙を赤色で塗りつぶすかのように、ただひたすらクイーンに自分の血を付着させていった。
「――こうやって、簡単に塗りつぶすことが出来ればいいのに」
白のクイーンは臨也の血で色を赤に変え、再び将棋盤の外に置かれた。そのクイーンの隣には、黒のキング。異色のクイーンと黒のキングが並んでいるのを見て、臨也は笑みを零し、外へ出た。
「我ながら信じられないよ。ここまで振り回されるなんてね」
――静雄と別れてから数十分後。臨也が仕事から帰宅して十分後。
「お帰り、。遅かったね」
「臨也さん」
マンションの前で壁に凭れての帰りを待っていた臨也。その姿を見て、ずっと自分の帰りを待っていてくれたのだろうか――少し嬉しくなったは臨也に近づくが、右手に布が巻きつけられていることに気付いた。それも、少し赤く滲んでいる。
「臨也さん、その手…!」
「ん?あぁ、これ?」
臨也は慌てることなくに軽く事情を話した。少しばかりイラついて、力任せに握り拳を作っていたら爪が食い込んでしまったと。イラついた原因は話さなかった。――話したくなかった。
「一つ付け加えるとすれば、が原因とかじゃないから。だから、そんな顔することないよ」
「…でも、臨也さんに何も言わずに外出を」
「その辺の話は後で聞くつもりだけどね。でも、怒ってないから」
――ただ、認めたくないだけだよ。の中にいるシズちゃんをね。
怪我をしていない方の手での頭を撫でた。臨也の手から伝わる温もりに微かに笑みを零したとき、怪我をしている手が目に入った。血が滲んでいる布。
「あの、臨也さん…。その手、消毒しましたか?」
「忘れてた」
「じゃあ早くしないと!」
臨也の腕を引っ張って行く。その力の強さに、迷いは無かった。臨也は実感する。
――の中にいる自分の存在は大きいと。
部屋に入り、は救急箱を取り出して臨也の手の治療に当たった。の冷たい手が怪我で熱を持った臨也の手のひらに触れる。痛くないようにと触れるに、臨也は身を少しだけ捩じらせた。するすると力なく触れる指が手のひらを刺激し、くすぐったいのだ。
「くすぐったいですか?」
「…わかっててやってるならも中々の策士だね。褒めてあげるよ」
空いている手での頭を撫で、そのまま手を下げていき頬に触れる。
「…会えた?」
「え?」
「会いたかったんだろ?」
――シズちゃんに。
「シズちゃん?」
「平和島静雄。…外見の特徴を挙げるなら、金髪、サングラス、バーテン服」
「どうしてその人と会ったってわかったんですか!?」
「内緒」
――わかるに決まってるだろ。今の君が会いたいと思う人間はシズちゃんぐらいだ。
「あ、そうだ…その人のことで、聞きたいことがあったんです」
「何?」
「私、昨日の記憶の一部がまた無くなったみたいなんです」
昨日の記憶はきちんと消えていた――臨也は安堵した。しかし、まだ問題は存在する。
記憶がきちんと消えているのなら、静雄のことは覚えていないはずなのだ。それなのに、は今日静雄に会いに行った。
――もしかして、少しだけ記憶が戻った?
「、昨日のこと思い出したの?」
「はい」
「そう…。あと…今日、シズちゃんここに来た?」
に思い出すきっかけを与えることが出来る人物は、静雄しかいない。出来るならば、そうであってほしくないが、きっと自分の答えは合っているだろうと思った。
「臨也さんって何でもわかるんですか…?そうです、今日この建物の下に立っていて、それで――」
臨也の耳に届いてないことを知らないは、今日のことを話し続ける。昨日の記憶が少し戻ったこと、過去の記憶も少し戻ったこと。そして、思い出した記憶の中には静雄がいたこと。
それでも、臨也の耳には届かない。今の臨也の中を占めているのは、静雄に対する苛立ちと嫌悪。
――だから俺はシズちゃんが嫌いなんだ。押しかけてくるだろうとは思ったけど、それはシズちゃんの中で整理がついてからだと思ってたよ。…まさか、昨日の今日とはね。本当、俺の邪魔ばかりしてくれるなぁ、あいつは…!
「教えてほしいんです。あの人の、平和島静雄さんのこと」
正直、答えたくなかった。しかし、上手くはぐらかせたとしても、今後もが静雄のことを聞いてくる可能性は無きにしも非ず。ここで軽く答えておけばいいと考えた。
「池袋で一番強い男って言われてるね」
「私のことも…知ってるようでした。それも、昔から」
「まぁ新宿に顔を出すこともあるから、君を見たことがあるんじゃないかなぁ」
――あいつが新宿に来るのは、俺を殴るためだけどね。
「…本当に、それだけですか?」
「あとは君が知っても意味は無いことだよ」
「私は、どんなことでも知りたいんです」
「俺が知らないでいいって言ってるんだから知らないでいい」
これ以上情報を与えると、記憶を思い出すきっかけになるかもしれない――臨也はに一つだけ情報を与えただけだった。
の記憶を消し、書き換えても満たされない心。虚しいとわかっていても、必死になって繋ぎとめようとする自分に憐れみを感じた。
「…もういいです」
「?」
は不意に立ち上がった。目には涙が浮かんでいる。
「臨也さんのことを思い出したくて、でも中々思い出せなくて…。だから、思い出せるところから思い出していけば、いつかきっと臨也さんのことも思い出せるって…思って……っ!」
「それは無理だよ、。…無理だ」
は、外へと繋がる扉へ向かって走り出す。それを阻止しようと、臨也は手を伸ばしての手を掴むが、怪我を負った利き手で掴んでしまい、痛みが走った。手が緩んだ隙に、は扉を開けて出て行ってしまう。
「…はは、俺らしくもない。苛立ちと不安に支配されて、鍵をかけ忘れる失態を犯すなんてね」
――俺のことを思い出したい、か。無理だよ、無理なんだよ。君の消えた記憶の中に、俺はいないんだ。いるのは、シズちゃんだけなんだ。
舌打ちをし、臨也はジャケットを手に外に出た。すでにの姿は無い。だが、臨也にはわかっていた。今のがどこに向かおうとしているのかを。
――池袋。
「…俺がしてきたことの答えが、今日出るかもしれないな」
池袋に向かって走り出した臨也。その表情は、真剣だった――。
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