朝、が目を覚ますと臨也はいなかった。
昨日は久々に外に出れて良かったと思う反面、ぽっかりと抜けて無くなっている記憶があることにため息をつく。
以前、不思議に思ったが臨也に聞くと、は事故に遭って記憶を失い、その後遺症でたまに数時間分の記憶が抜けることがあると言う。
――だが、それは全て嘘。記憶を失ったには、自分のことを知っている臨也しかいなかった。そのため、臨也の言葉を全て信じた。が、臨也の恋人であると言う嘘も、全て。臨也の話が嘘だと気付いていないが、それでも、今のは本当に臨也を愛していた。そのことに偽りは無い。
「あら、起きたの?今日は遅いわね」
下りてきたの姿を見て、波江は声をかけた。臨也からは何も聞けなかったが、静雄とが接触したことは知っていた。しかし、を見ても昨日と変わらない。またしても臨也がの記憶を消去したのかと呆れた。何も進展しない、停滞しつ続ける物語はもういらないのだとも思った。
「おはようございます」
「朝食は作っておいたから」
「ありがとうございます。いただきます」
波江が作った朝食を食べる。波江の作る朝食は美味しいのだが、今日に限っては何故か食欲が出なかった。サンドイッチを一つだけ食べて、残りはお昼に食べることにする。
温かい紅茶が入ったカップを片手に窓まで歩き、外を眺めた。今日も昨日と同じくらい良い天気だ。また外に出たいと思って眺めていると、金色が視界に入った。その色に反応したは、視線を下にずらしていく。
――あ、れ?
ずきん、と鈍い痛みがを襲う。何も無いところから何かが出てこようとする感覚。それでも、下からこの部屋を、を見ているバーテン服を身に纏った金髪の男――静雄から目が離せなかった。よく見ると、口が動いている。
それを見て、どくん、どくん、と早鐘を打つ心臓。
『』
何度もを呼んでいた。、と。相手は、静雄はもちろんのことを知っている。だが、は静雄を知らない。昨日会ったことすらも覚えていないのだ。
――誰?あの人は、あの、金髪の男の人は、一体、誰?
辛そうな表情を浮かべて『』と呼び続ける静雄に、何故か胸が締め付けられる思いに駆られる。そんな自分に戸惑いを隠せなかった。
――誰なのかわからないのに、何で悲しくなるんだろう…。
その瞬間、昨日の抜け落ちた部分の記憶の一部が映像のように頭の中で流れた。昨日も同じことを思ったのだ。あの人物が、静雄が辛そうにしていると、自身も辛い、悲しいと。記憶として戻ったのはその部分だけで、他は戻らなかった。しかし、今のにとってそれだけで十分だ。
我に帰り、急いで窓の外を確認すると、静雄の姿が無い。カップを臨也のデスクに置き、仕事をしている波江の腕を引っ張った。机の上からばさりと音を立てて大量の紙が落ちるが、今はそれどころではないのだ。
「な、何なの急に」
「お願いです、あの扉開けてもらえませんか!?」
「どうして?」
「どうしても会いたい人がいるんです!お願いです、開けて下さい!」
会いたい人――その言葉を波江が聞き逃すはずがない。の会いたい人とは、静雄のことだろうと察し、波江は扉の鍵を開けた。はお礼を言って飛び出していく。
面白いことになってきた。走って行くの後姿を見て、波江はそう思った。
――いない。あの人は、どこに行ったの?
はきょろきょろと辺りを見渡した。静雄が立ち去ってからそう時間は経っていない。
なのに、静雄の姿が見えなかった。は通りを走りながら静雄の姿を探した。久しく走っていなかったため、すぐに息が上がる。それでも、は走るのを止めなかった。薄らとだが戻った記憶。その記憶がまた消えてしまうかもしれない。その不安から、記憶が消えてしまう前にどうしても会いたかった。
――昨日の貴方も、辛そうな顔をしてた。どうして、どうして…!
中々見つからないことに焦りが生まれる。何度も行き交う人とぶつかり、体力と精神力が削られていく。
もう会えないのか――が諦めかけたそのとき、人と人の隙間から見覚えのある金髪とバーテン服が見えた。だが、その人物はに気付くことなく歩いて行く。
もつれそうになる足を無理矢理動かし、は必死に追いかけた。もしかしたら違う人物かもしれない――そう言った考えはまったく浮かばなかった。どこかで確信していたからだ。あの人物の、静雄の後姿だと。
「待って…」
人混みにかき消されてしまう声。それでも、は叫んだ。あの人に届くようにと。
「待って!」
何事かとの周りにいた人間は振り向いた。
――違う、貴方達じゃない。あの人なの。もう私には追いかける気力が無い。だからお願い、振り向いて…!
の願いが通じたのか――声は届いたようで、歩みを止めて振り向いた。
「…!?」
――振り向いた男は静雄だった。は安堵の息を吐く。
問題はここからだ。追いかけて見つけたのは良いが、何を話せばいいのかわからない。何故自分を知っているのか、どうして辛そうにしているのか、その他にも静雄に聞きたいことはたくさんある。だが、今のにとって静雄は初対面の人間も同然だった。緊張から手が震え、冷たくなっていく。
「、お前何で追いかけてきたんだ?…全部思い出したのか!?」
「え、えっと…全部じゃないんです…昨日の、無くなってしまった記憶の一部だけ…」
一部。それでも静雄は嬉しかった。消された記憶は、永遠に消えたままではないと言うことがわかったのだから。それと同時に、臨也に対して怒りが込み上げた。やはり臨也は、昨日の静雄との出来事を、記憶の消去と言う形で無かったことにしていた。
想定していたとは言え、腹が立つものは腹が立つ。
――は玩具じゃねぇんだぞ…!手前の好きなようにの記憶を消しやがって…!
静雄は、臨也にのことで聞きたいことがあり、部屋の下まで赴いていた。だが、臨也ではなくが姿を見せた。静雄の存在に気付いていないは外ばかりを眺めていた。
――もしかしたら、こっちを、俺を見てくれたりは…ねぇか。
昨日の今日だ、臨也に記憶を消され、昨日のことなど覚えていないかもしれない。そう思ったが、諦めきることが出来ないでいた。
――何かが変わるとか、そういうのは思ってねぇ…。ただ、俺自身が現実を受け入れてねぇだけだ。の記憶が無いって言う現実を――が俺を覚えてねぇって現実を。
今のを見るのが辛いと思いながらも見てしまう自分を女々しいと思いながら、静雄はを見ていた。すると、が何かに反応し、静雄に目を向けた。
目が合う。静雄は、無意識に口に出していた――『』と。何度も何度も呼び続けた。
に反応があったかどうかはわからない。ただ、呆然と静雄を見ているだけ。これ以上はここにいても無意味かもしれない。静雄はそう思ってその場を離れた。
――だからこそ、嬉しかった。が俺を追いかけて来てくれたことが。
そして、思い知った。これほどまでにを求めていたのかと。
「…大丈夫、ですか?」
を見つめたまま黙る静雄に、戸惑いながらも声をかける。その声にびくっと身体を揺らし、静雄は瞬きを繰り返した。
「あー…ごめんな、変なこと聞いちまって」
「いえ、その…私の方こそ、すみません。急に呼び止めたりなんかして…。それにしても、びっくりしました。私の記憶が無いこと、ご存じだったんですね」
「あぁ…ノミ蟲――いや、臨也の野郎から聞いてたしな」
「臨也さんから?そうですか…」
「それで?…俺に何か用か?」
「大したことじゃないんですけど…どうして、あそこで立ってたのかなって思って」
静雄が臨也のを出した途端、少しだけ解かれるの緊張。その様子がはっきりとわかり、静雄はすぐに話題を変えた。これ以上、臨也の名前を出したくなかった。
しどろもどろになりながらも話し、気まずそうに視線を逸らす。そんなを、静雄は視線を逸らさずに見ていた。
「…なぁ」
「何ですか?」
「帰らないか、池袋に」
静雄の言っている意味がにはわからなかった。の帰る場所は、池袋ではなく、新宿の臨也のところなのだ。自身はそう思っている。
「俺はただ臨也の野郎に話があったんだ。…あいつが素直に話すとは思えねぇが、それでも話を聞いてからどうするか考えるつもりだった」
「何をですか?」
「…お前のことだよ」
「私、ですか?」
――慎重に事を運ばねぇとって思ってたけどよ、もう我慢の限界だ。あいつの…臨也の好きにはさせねぇ。
「、臨也から離れろ」
「…え?」
「お前の居場所は、そこじゃねぇからだ」
静雄に居場所を否定され、の中に怒りが芽生えた。
「そこじゃないって…じゃあ、私の居場所はどこだって言うんですか!?」
臨也の隣は、の唯一の居場所だ。何故自分の居場所を否定されなくてはいけないのか。そこではないと言うのなら、一体どこなのか。
「俺の隣だ」
不器用な男の、不器用なりの言葉。
その言葉は、確実にに届き、そして――
「おい、!?」
無くなった記憶を取り戻す鍵となった。
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