両手を合わせ、口元へ近づける。寒さで赤くなった指先に向けて、息を吐いた。
「おいおい、。寒いなら寒いって言ってくれよなー」
隣を歩いていた正臣は、吐き出す息で温めようとしているの両手を自分の両手で包んだ。
「彼女の手を温めるのは彼氏の役目なんだから」
こつん、と正臣はと額を合わせた。近くなった距離にの頬は赤く染まる。目を合わせる事が恥ずかしくなり、視線を彷徨わせた。
「で、でも、正臣君の手が」
「こういうときは『ありがとう』って言ってくれる方が俺としては嬉しいね」
「あ……あ、ありがとう」
「どういたしまして」
付き合いだして、半年が経った。正臣に告白され、付き合って、そして今に至るまでの半年は、にとって初めての事ばかりだった。好きな人と付き合う事。手を繋ぐ事。抱き締められる事。キスをする事。何もかもが初めてでわからなかったを、正臣は優しくリードしてくれた。の初めての相手になれる事が嬉しいと言ってくれた正臣の笑顔は、今でも忘れられない。も嬉しかった。初めての相手が正臣だと言う事が。
今、とても幸せだ。は人知れず微笑んだ。帝人や杏里と言った友人達に囲まれ、隣には正臣がいる。自分を支えてくれる静雄や、セルティ達もいる。
は信じていた。この幸せな日々がこれから先もずっと続くと。これから先もずっと、皆と共にいれると。
すでに崩壊の序曲が始まっている事にも気付かずに。
序曲が始まっている事をに知らせたのは、携帯電話だった。は慌ててブレザーのポケットに入れていた携帯電話を取り出す。
「お兄ちゃん?」
「だったら早く出た方がいいんじゃね?」
そうだね、とは急いで電話に出た。すると、すぐに静雄の声が聴こえて来た。その声は、とても大きく、何か焦っているようだった。
『!』
「わ、お、お兄ちゃん」
『良かった……無事か……』
「無事、だけど……何かあったの?」
電話に出た事に安心したのか、静雄は電話の向こうで息を吐きだしていた。今静雄がどこで電話しているのかわからないは、状況がいまいち掴めない。
しかし、そんなでもわかる事があった。
電話の向こうから、微かに救急車のサイレンの音が聴こえてくるのだ。その救急車のサイレンの音と共に、別に音も聴こえてくる。それがパトカーのサイレンの音だと気付くのに時間は掛からなかった。
『いや、トムさんから聞いたんだけどよ、来良学園の近くで殺人事件があったみてぇなんだ』
「さ、殺人、事件……?」
「……は? おいおい、? 殺人事件って?」
『もしかして、あれか? あー、その、何だ。彼氏といるのか?』
「う、うん」
『……そうか。だったら二人とも気をつけた方が良いかもな』
次の瞬間、は言葉を失った。
『殺されたのは、来良の生徒らしい』
家にすぐ帰るように。家に着いたら鍵を閉めるように。そう言って静雄は電話を切った。
「、殺人事件って?」
「来良学園の近くで、あったんだって……」
「それ、マジかよ……」
「殺されたの、来良の生徒だって、言ってた」
「……え」
も、正臣も、殺人事件と言うのは、ニュースや漫画の世界だと思っていた所があった。あまり身近なものでは無かったのだ。だから、池袋で、それも自分達が通っている来良学園の近くで来良学園の生徒が殺されたと言う現実は驚くべきものだった。
今まで身近に感じなかったものが、身近で起きた。それだけで、日常は姿を変える。
日常の崩壊が、始まったのだ。
「なぁ、犯人は捕まったのか?」
「多分まだ捕まって無いと思うよ」
「ってことは、もしかしたらこの辺うろついてる可能性も……」
確かに、無きにしも非ず。一気にの周辺にいる人間達が怖く見えた。あの中に殺人犯がいるのではないかと思ってしまう。不安そうな表情を浮かべるに正臣は安心させる為に笑顔を浮かべた。
「俺が護る! だから、そんな顔すんなって」
「うん……」
「あと、朝は待ち合わせは無しにして、俺が家まで直接迎えに行くよ。帰りも、家の扉の前まで送る」
「嬉しいけど、正臣君は? 正臣君、一人でって危ないよ」
「俺の事よりも自分の事を心配しなさいっての! でも、のその気持ちは有り難く受け取っておく」
「じゃあ、正臣君が家に帰るまでは、電話とかで話さない? やっぱり、不安だし……駄目かなぁ?」
「名案! 採用決定!」
犯人が見つかるまでのルールが決まった。何故だろうか、の中にあった不安が姿を消していた。
――きっと、正臣君のお陰だよね。
家の扉の前まで送ってもらい、が家の中に入って鍵を掛けたのを確認してから正臣は帰って行った。そして、先程決めたルールの通り、は正臣に電話をかける。
「もしもし」
『ちーっす!』
「よかった、正臣君だ」
『ったく、何言ってんだよ。俺に決まってんだろ』
正臣の声が電話の向こうから聴こえてくるだけで安心できた。なるべく人通りが多い所を通って帰って欲しい、とが言った事を実行してくれているようだ。正臣の声と共に車や人間の会話など、たくさんの音が聴こえてくる。安堵の息を漏らすと、正臣が小さく笑った声がした。
『心配し過ぎ』
「当たり前だよ! だって、殺人犯がどこかにいるかもしれないのに」
『易々と殺される俺じゃありません。って言うか? を置いて死ねません、みたいなー』
「もう!」
の不安を少しでも取り除こうとしてくれているのだろう。正臣の声は終始明るかった。
『お、家着いた』
「本当?」
『嘘なんか言うかよ。それじゃ、また明日な』
「うん、また明日ね」
電話を切ると、見計らったかのようにして静雄が仕事から帰って来た。玄関まで迎えに行くと、静雄は笑顔を浮かべ、の頭を撫でた。
「ただいま」
「お帰りなさい」
来良の生徒が殺されたと言う事もあって、が心配になり、仕事を早めに切り上げて帰ってきたと言う静雄。蝶ネクタイを外し、机の上に置く。
「トムさん、現場見に行ったらしい」
「現場って……」
は息を呑んだ。現場、と言われれば、殺人事件の現場だろう。気にはなっていたが、いざ話を聞くとなると身体が強張った。
「……酷かったってよ。どれだけ刺されてるかなんてわかんねぇ程だったらしい」
本当に酷い状態だったと、トム自身も見たのは一瞬だが、目に焼き付いて離れない程だと肩を落としていたのを思い出した。人と人の間からしか見れなかった為、他はどうなっているかわからないが、胴体部分が特に酷いのではないかと話していた。
犯人はメッタ刺しにした後、凶器として使用したであろうナイフを心臓に突き刺していたそうだ。
「……っ」
「あ、悪い。こんな話、聞きたく無かったよな。……ごめん」
表情を歪めるの頭を撫で、静雄は息を吐きだした。本当は、もう一つ言っておく必要がある事があったのだが、このような状態のに、言えるわけが無かった。
殺されたのは、のクラスメイトの男子だと言う事を。
来良学園の近くで起きたと言う事もあって、野次馬の中には来良学園の生徒もいた。その生徒達の会話内容を、トムが偶然聞いたらしい。
「犯人、捕まるよね……?」
「あぁ、捕まるさ」
の不安を取り除いてやりたいが、どうする事も出来ない。静雄は、そんな自分がとても歯がゆく感じた。
翌日。正臣が迎えに来て、は二人で登校した。どこが現場付近なのだろうかと思っていたが、その場所はすぐにわかった。マスコミや警察官で溢れているからだ。その現場付近は通らないようにして、二人は校門へと向かった。
しかし、二人の間に流れる空気は重い。そんな空気を変えようと、は別の話題を切り出した。
「そう言えば、竜ヶ峰君の風邪は良くなったのかなぁ」
「あ、そうそう。それで思い出した。昨日の夜、いろいろ心配になったから電話かけたんだけどさ、繋がらなかったんだよなぁ」
「繋がらなかったって?」
「電源が切られてる状態だったっつーか。今日の朝もかけてみたけど、まだ電源切ってるみたいだわ」
帝人は二日前から風邪で学校を休んでいた。昨日は二人で見舞いに行く予定だったのだが、殺人事件が起き、結局お見舞いには行けず仕舞い。熱が高くてしんどい、と二日前に帝人は正臣にメールでそう言っていたので、電源を切って寝込んでいるのかもしれない。
「今日、杏里も誘って三人で見舞いにでも行くか!」
「そうだね。竜ヶ峰君大丈夫か心配だし」
帝人は杏里の事が気になっている。きっと喜んでくれるだろうと二人で笑っていると、後ろから杏里が歩いてきた。
「あ、おはようございます、紀田君、神山さん」
「おはよーっす! 杏里!」
「おはよう、杏里ちゃん」
今日帝人の見舞いに行かないかと誘うと、杏里は首を縦に振ってくれた。放課後に帝人の家に行く事を約束し、三人はそれぞれの教室へと入った。
何故か教室が騒がしい。杏里と二人で顔を見合わせた後、皆が集まっている席に行くと、そこの机の上には花瓶が置かれていた。
――もしかして……。
そう、その席は、昨日の殺人事件の犠牲者が座っていた。
「殺人事件、ニュースで見ました。……まさか、うちのクラスの生徒だったなんて」
杏里は胸の辺りに手を当て、目を逸らした。も思わず目を逸らした。
彼は、の隣の席だった。昨日も、その前も、少しだが会話を交わした記憶がある。
「……良い人だったのに」
――殺すなんて、ひどすぎる。
担任が教室に入って来た。杏里とはそれぞれ席に着く。席に着くとき、は後ろの席を見た。この時間に来ていないと言う事は、恐らく今日も帝人は休みなのだろう。今日も空席だと、やはり寂しい。
慌ただしくホームルームが始まった。まずは、昨日の殺人事件の事から。そして、黙とう。
――早く犯人が見つかりますように。
黙とう後、は窓から見える景色に目をやった。昨日までの日常は、どこへ行ってしまったのだろうか。だが、悲しい事に、人が一人殺されてしまったと言うのに、世界は昨日と変わらず回り続けている。変わったのはの日常だけで、世界は何ら変わりないのだ。
これが、人の死なのだろうか。はぼんやりと空を見た。心の中が暗くなっていくのがわかる。は慌てて頬を叩いた。
――今日は、お見舞いに行くんだから。暗くなっちゃ駄目。
隣の席に置かれている花瓶を見る。誰かが用意した花は、外から入って来る風で揺れていた。
――今のわたしに出来る事をしよう。……悲しむだけが、出来る事じゃないよね。
出来る事。ふと、帝人はきちんと食事をとっているのか気になった。一人暮らしだと、風邪をひいたときなど大変だろう。はある事を思いついた。
――そうだ、今日は杏里ちゃんと一緒にご飯作ってあげよう。
早く元気になって、学校に来て欲しい。授業開始のチャイムを聞きながら、は帝人の家で杏里と何を作るか考えた。精がついて、それでいて食べやすく、消化が良いものを作ろうと、授業よりもそちらの方を優先して。だが――。
「はぁ!? どうなってんだよこれ!」
授業が終わり、帝人が住んでいるアパートに来たのだが、そこで三人を待ち受けていたのは驚くべきものだった。
「何で帝人の部屋が空室になってんだよ!」
そう、帝人が住んでいるはずの部屋は、何故か空室になっていたのだ。大家に訊いてみると、昨日の朝に『引っ越しをする』と連絡があったそうだ。突然の事で驚いたが、必要な書類は揃っており、何も言えなかったらしい。荷物は引っ越し先に運ばずに業者に頼むと言っていて、昨日全て処分したとの事だった。どこに引っ越したのかと訊いたが、大家自身も訊いてはいないらしい。
大家に事情を話して鍵を受け取り、部屋の中に入った。部屋の中は空っぽで、帝人が愛用していたパソコンも、数は少なかったが、部屋にあった生活必需品も無くなっていた。業者が全て処分してしまった為だろう、彼が住んでいた痕跡すら見当たらない程、綺麗になっていた。
正臣は携帯電話を取り出し、帝人の携帯電話にかける。
だが、今朝は繋がった筈の番号は、すでに使用されていなかった。
「……くそ!」
どうなっているのか。正臣は苛立ちから携帯電話を投げ捨てた。は慌てて正臣の携帯電話を取りに行く。
「わけわかんねぇ……」
「竜ヶ峰君、どこに行っちゃったんだろう……」
「……あ、あの、学校に訊いてみるって言うのはどうでしょうか」
杏里の言葉に、正臣とは顔を上げた。帝人の行方がわからなくなってしまった事にショックを受けて失念をしていた。
担任なら、帝人の新しい連絡先がわかるかもしれない。
早速学校に電話をかけてみる。もし学校側が知らないのならば、帝人の両親に訊くしかないかもしれない。しかし、正臣も帝人の実家の連絡先はわからない。学校だけが、唯一の希望だった。
杏里とは担任と話す正臣を見守るが、彼の表情は次第に暗くなっていった。
「……ありがとうございます。失礼します」
電話を切り、ため息をつく正臣。
「どうだった!?」
「駄目だった。そもそも、帝人が引っ越したって言う事すら知らなかったってさ」
重たい沈黙が三人の間に流れる。も帝人の行きそうな場所などを考えてみるが、思いつかない。池袋は楽しい所だと言っていた帝人が、池袋から出るなど考えられなかったのだ。
「とにかく、今日は帰ろう。、杏里、送るよ」
正臣の言葉に、と杏里は頷いた。静かに帝人が住んでいた部屋を後にする。道中、正臣は何度も帝人のアパートを振り返っていた。
そして翌日、担任から話を聞いた帝人の両親が捜索願を出した。
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