※暴力表現があります。お話自体も暗いです。ご注意ください。








「ぐ……」


 目の前が霞む。


「は……ぁ……」


 意識が遠のく。


「ごめん……苦しいよな。本当に、ごめん」


 泣かないで。そう言いたいけれど、言えそうに無かった。
 それでもどうにか伝えたくて精一杯の笑顔を浮かべると、ありがとうと言ってくれた。








「どうしたの、それ」


 しまった、とは思った。一瞬で体温を奪われるような、そんな感覚に襲われる。
 出来るなら、会いたくない相手。
 彼は、臨也は何でも知っていて、そして、が最も嫌う選択肢を突きつけてくるから。


「ちょっと、どこに行くつもり? どうしたのって聞いてるんだよ」


 その場から離れようとしたが、腕を掴まれて強引に振り向かされてしまう。の首元を見て、臨也は顔面蒼白になった。腕を掴む臨也の手が少し震えたような気がした。


「もしかして、また……!? また、あいつに!?」

「それ、は……」

「答えなよ!」

「……はい」


 は下を向いた。腕を掴んでいた臨也の手が力なく外れ、ぶらりと揺れる。いつも飄々としていて、どこか人を見下している臨也の面影は無い。


「……今回は、何が原因?」

「……少しだけ、帰りが遅くなって、それで」

「それで、首を絞められたってわけ? たったそれだけで?」


 呆れと怒りが混じった声色だとは思った。
 本当に、少しだけ帰りが遅くなっただけなのだ。担任から片付けを手伝ってほしいと言われ、断る事が出来なかった。少しだけなら、と手伝ったのだが、帰りがいつもより遅くなってしまった。だが、それでも少しだけだ。ならば問題無いだろうと帰宅したのだが、彼はそれを許してはくれなかった。
 気が付けば、首を絞められていた。何とか理由を話したが、信じてもらえない。首を絞める手を何度も引っ掻いたが、効果は無く、時間が経つにつれて抵抗する気力も失せていく。意識が朦朧とし、の首を絞める人物の顔すらぼんやりとして来たとき、漸く解放された。足が床から離れていた為、の身体は大きな音を立てて倒れた。その時の彼の悲痛な声は今でも覚えている。
 苦しそうにむせるの身体を抱き締め、ずっと背中をさすっていた。すまない、と涙を流しながら、ずっと。
 その手が、心地良く感じてしまった。先程までは、の首を絞めていたその手を。
 不思議だった。彼の手は温かい。なのにどうして、こうなってしまうのだろうかと。
 連絡を入れていれば、こうなっていなかったかもしれない。連絡を入れていれば、彼はの好きなこの温かい手で優しく迎えてくれたかもしれない。
 は思った。――自分が悪いのだと。


「……あのとき、わたしが連絡を入れていれば、こんなことにはなってなかったんです」

「それ、この前も言ってたね。自分が他の人と話さなければ、こんなことにはなってなかったってさぁ」

「……」

「まとめると、ちゃんが全部悪いから、あいつが暴力を振るうってことになるけど?」


 言い終えると、臨也はため息をついた。ため息をつく理由はわかっている。臨也はの言っている事に腹を立てているのだ。
 以前、臨也に言われた事がある。が全て悪いわけではないのだと。なのに、が悉く自分が悪いと自分自身に言い聞かせているため、腹が立つと。
 しかし、としては原因が何かわからない以上、自分が悪いと思うしか無かった。


 ――わたしが悪い所を直せば、あの頃の、優しかった静雄さんに戻ってくれる。……わたしは、そう信じてる。


 あの温かい手は、まだ無くなっていないのだ。の支えは、そこにある。
 だが、臨也としては今のこの状況は非常に不愉快だった。
 は優秀な手駒になる。臨也としては、を手元に置いておきたい。だから、を傷つけ、独占しようとしている静雄が許せなかった。そして、事は臨也にとって最悪な事態へと進み始めている。ならば、どうすればいいのか。臨也の中で、答えはすでに出ていた。
 俯くの頭を撫で、臨也は歩き出した。ジャケットのポケットに入っている、ナイフを握り締めながら。
 いつかは消そうと思っていた相手だ。消すのが今になった。ただそれだけの事。


「臨也さん、どこに行くんですか?」

「シズちゃんを殺しに行くんだよ」

「……え? 殺す、って……ど、どうして!? 臨也さん、わたしが悪いんです、静雄さんは、悪くないんです! だから、殺すなんて言わないでください! お願いします!」


 静雄を殺すなど、にとっては聞きたくなかった言葉。必死に臨也を止めようとした。


 ――予想通りの反応だね。


 静雄も変わったと思うが、も変わってしまった。臨也はそう思った。


 ――いや、変わったって言うよりは、シズちゃんの変貌に適応してしまった、って言うべきかな?


 以前まではまったく暴力を振るわなかったあの静雄に、疑問すら抱かない。自分が悪いと思い込み、暴力を振るわれても共にいる事を望む。


 ――何よりも恐ろしいのは、それで均衡が保たれてしまっている事。


 馬鹿らしいと臨也は心中で一蹴した。そんなものは、愛では無い。愛とは、呼べない。


 ――均衡を崩してあげるよ。この俺が。そのあとのちゃんのケアは、俺に任せてくれれば良い。


「シズちゃんは、必要無いんだよ」


 の制止を振り切り、臨也は静雄がいそうな場所に向かい始める。が、歩みはすぐに止まった。行かないでほしい、殺さないでほしいと言うの願いが通じた様子は見受けられない。
 臨也の後ろに立っているため、からは前がどうなっているのかはわからない。ゆっくりと歩いて行くと、少しだけ人影が見えた。
 まさか、とは息を呑んだ。
 臨也の斜め後ろまで来て、あと少しで姿が見えると言う所で、彼に手で前を遮られた。


「臨也さ」

「わざわざ俺に会いに来るなんて珍しいねぇ」


 相手を挑発するような臨也の態度。辺りの空気が張り詰める。


「……そんなに慌てて来る事無かったんじゃない? ま、行く手間は省けたけどね」


 シズちゃん、と臨也は鼻で笑った。


「てめぇ、をどうするつもりだったんだよ」

「どうするもこうするも、ただ話が聞きたかっただけだよ」


 臨也に腕を握られ、前に引っ張られる。足がもつれそうになったが、それどころでは無かった。臨也の前に立たされると、顎を掴まれ、上を向かされる。彼のやりたい事が、手に取るようにわかった。


「ねぇシズちゃん、見てよ。誰かがちゃんの首を絞めたような痕があるんだ」

「……」

「臨也さん、も、もう、やめてください……! お願いです……!」

「やったの、シズちゃんだろ?」

「……うるせぇよ」

「どうやって絞めたの? 馬乗りになって? それとも、立って?」

「うるせぇっつってんだろ!」


 怒声が辺りに響き渡った瞬間、静雄は臨也を殴り飛ばした。は臨也に駆け寄ろうとしたが、静雄に腕を掴まれてしまい、行く事が出来ない。


「……てめぇに、俺の何がわかるんだよ」


 の腕を握る手に力が入る。
 臨也に何がわかるのか。沸々と怒りが込み上げてくる。


「行くぞ」

「待って、臨也さんが、臨也さんが!」

「あんな奴の心配なんかする必要ねぇだろ!?」

「ご、ごめんな、さい……!」


 静雄に引き摺られるようにしてその場を後にする。倒れたままの臨也の方を何度も振り返りながら。








「なぁ、言ったよなぁ。俺を不安にさせるなってよぉ……」


 家に着くなり、静雄はに怒りをぶつけた。


「あ、そ、それは」

「何でだ? 何で俺を不安にさせるような事ばっかりするんだ? あぁ、面白がってんのか。俺が不安になる様を見て、面白がってんのか」

「ち、違っ……」


 ただの平手打ち、だが、相手は静雄だ。左頬を打たれ、はその衝撃で後ろにある壁に全身をぶつけた。ずるずると床に座り込み、打たれた左頬を押さえた。口内のどこかが切れたのだろう、少し開いている口から血が流れ、床に落ちた。左頬は熱を持っていて、押さえている手が冷たく感じる程。その手の冷たさにぼんやりとしていた思考がはっきりとしていく。
 ぽたりと、床に広がる血の上に涙が落ちた。
 不安にさせたいなど、一度も思った事が無い。なのに、どうして信じてもらえないのだろうか。信じてもらえない自分が悪いのかもしれないが、が静雄を愛していると言う事すらも否定されたように感じて、とても悲しくて、とても悔しかった。


「わたし、そんな事しない……。どうして、信じてくれないの……?」

「うるせぇ」


 座り込むの腹に向けて、静雄は蹴りを入れようと足を動かした。


「ひっ……!」


 は息を呑んだ。少しでも衝撃を和らげようと身構える。が、何も起きない。かたかたと小刻みに震えながら視線だけを動かして静雄を見る。


「違う、俺は……」

「静雄、さ、ん……?」


 静雄の悲痛な声に、はゆっくりと顔を上げた。そこには、拳を作って震わせ、唇を噛み締める静雄の姿があった。


「俺は、こんな事がしたいんじゃねぇんだ……! を、傷つけたくねぇんだよ……! なのに、俺は……」


 力強く抱き締められる。の肩に顔を埋め、謝り続ける静雄。


「静雄さん……」

「ごめん……ごめん……! もう、俺自身どうすればいいのかわかんねぇ……!」

「……」

「傍にいたいんだ。でも、傍にいると、俺は……、お前を傷つけることしか出来ねぇし……悲しませることしか出来ねぇ……。わかってんだよ、わかってんだ……!」

「もういいよ、もう、いいから……」

「本当に……ごめん……」


 もう何度聞いたのだろうか。静雄の『ごめん』と言う台詞を。


 ――それでも、愛しいって、傍にいたいって思うのは、おかしいのかな。


 殴られても、蹴られても、首を絞められても。静雄に愛されているのであれば、全て赦せる。赦せてしまう。
 は左頬に当てていた手と、空いている手を静雄の背中に回した。


「大切にしたいのに……何でうまくいかねぇんだよ……」


 ――その気持ちだけで、わたしは十分だよ。


 そう伝える代わりに、は静雄の身体を強く抱き締めた。伝わって来る静雄の体温に、とても安心する。このまま、こうして二人だけで過ごせれば良いのにと思う程に。


 ――あぁ、そっか。最初から、こうすれば良かったんだ。


「わたし、もうどこにも行かない」

「どこにも……?」

「うん、どこにも行かない」

「……本当に?」

「うん、だから――」


 ――ごめんね、皆。もう、こうするしか、わたしには……。


「……


 ――さようなら。








 翌日、池袋から静雄とは姿を消した。誰にも、何も告げずに。
 二人の行方が分からなくなったと知り、セルティや帝人達は必死になって探したが、見つけられず。手がかりも無いまま、時は無情にも過ぎていく。


『連絡もつかない……。こんな事、今まで無かったのに……!』

「荷物も置きっ放しで、静雄さんもさんもどこに行っちゃったんだろう……」


 そんな中、臨也だけが落ち着いていた。ナイフを出したり、仕舞ったり、それを何回も何回も繰り返しながら、静雄とが住んでいた部屋の前にいた。


「……あの時、殺しておけば良かったね」


 臨也は口元を歪めた。ナイフを扉に突きつけ、抉るようにして回す。


 ――結局、シズちゃんが全部持って行ってしまった。俺の欲しかったもの、全てを。


 ナイフは臨也の力で折れ、使い物にならなくなってしまった。そのナイフをマンションの外に放り投げ、先程ナイフで傷をつけたところを見る。何も面白くは無い筈なのに、何故か笑いが込み上げて来た。


「ははっ、はははははは!」


 何を思ったのか、臨也は何度も何度も扉を蹴った。周りの住民が煩いと顔を出しても、気にせずに扉を蹴り続ける。笑いながら扉を蹴る様は、狂気に満ちていた。


「……羨ましいね、本当。何もかも手に入れる事が出来たんだからさぁ」


 ――この俺ですら、もう手に入れる事が出来ない。


「あぁ、本当に羨ましいよ」


 ――ちゃんの全てを手に入れる事が出来たシズちゃんがさ。


 今も二人の行方は分かっていない。






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