「……寒い」


 今は何月だと携帯を開けば、ディスプレイには『10月』と表示されている。昨日まで暖かかった10月はどこへ行ったのかと思うほど今日は冷え込んでいた。ぶるりと震えた後、何となくワンセグでニュースをつけた。綺麗な紅葉に雪化粧が施され、真っ白になっている。別のチャンネルに切り替えると、静雄と同世代ぐらいの若い男性が『ジャケットとかクリーニングに出してて無いっすよ』と困ったようにインタビューを受けていた。


 ――あー、わかるわかる。俺もまだクリーニングに出してるからな。


 10月にしては暖かい気温だと思っていれば、10月にしては少し寒い気温になる。もしこれが来年以降も続くのであれば、クリーニングに出す時期も考えものだと思った。


「それにしても寒いな……」


 仕事はこの一件で終わりなのだが、客が文句を言ったりする為中々終わらない。トムに任せて静雄は少し離れたところから見ていたのだが、寒さで苛立ちが増してくる。
 あまり怒りたくは無い。暴力は嫌いだからだ。だから静雄は離れていた。


「いいか、俺も仕事で来てんだ。……使った分、ちゃんと支払えよ」

「うるせぇよ! 誰が支払うか! 馬鹿か、馬鹿かお前! 寒いんだから早く消えろよ、うぜぇんだよ!」


 ――馬鹿? うぜぇ? 馬鹿なのもうぜぇのもてめぇだろうが。こんな寒い中手間取らせやがって……!


 寒い。うざい。寒い。うざい。うざい。うざい。
 寒さで手が冷える。手間を取らせる相手に対しての苛立ちが増す。
 待つのも仕事だとわかっている。わかっているが、寒さと相手に対する苛立ちが静雄の中の感情を昂らせる。そして、その矛先はとうとうトムが相手をしている客に向けられた。


「……おい」

「あぁ!? 何だよ! お前も俺の邪魔するのかよ!」

「邪魔? 邪魔してんのはてめぇだろうが。寒いのに外に出て、わざわざてめぇのところまで来て、こうやって優しくトムさんが話してやってんのに暴言ばっか吐いて、てめぇ何様だ、あぁ?」

「静雄、落ち着け」


 至極落ち着いて言葉を発したつもりだったが、言葉にする度に押さえつけていた感情が溢れてくる。気が付けば、静雄の近くにあった自販機を持ち上げていた。


「お、おい! 静雄! ……あーぁ、俺はもう知らねぇぞ」


 ――あれだけ『静雄を怒らせるな』って忠告したのに。馬鹿だなあいつも。


「てめぇがさっさと支払ってりゃあ、俺は怒る必要なんて無かったのによぉぉおぉぉお!」

「ひ、ひぃ!?」




 ――帰宅途中、大きな音が響き渡り、空中に自販機が舞った。


「あれ、自販機が空に……って、ま、またお兄ちゃん投げたの!?」


 少し早いが寒さに負けてマフラーを首に巻いたは、空中で舞う自販機を見て目を見開いた。あのような芸当が出来るのは、静雄だけだと。


「あっちかな……」


 ――またお兄ちゃん怒らせた人がいたんだなぁ。自分が危なくなるだけなのに怒らせるなんてね。


「……でも、戦ってる時のお兄ちゃんってかっこいいんだよね」


 口が裂けても本人には言えない事だが、はそんな静雄の姿も好きだったりする。好きだと思った瞬間、顔に少しだけ熱が集中したのがわかった。
 その顔を隠すように、少しだけずり落ちて来たマフラーを口元まで上げた。


「行ってみようかな」


 運が良ければ、一緒に帰る事が出来るかもしれない。は静雄がいるであろう場所へと急いで向かった。




「――あれ、ちゃん?」

「え、?」


 トムの声に、正確にはトムが『』を呼んだ事で一気に落ち着きを取り戻した静雄は、胸倉を掴んでいた相手を離し、後ろを振り向いた。
 そこには、来良学園の制服を着てマフラーを首に巻いたが立っていた。少しだけ鼻が赤く見えるのは、この寒さでだろう。


「どうしたんだよ。ここ、帰り道じゃねぇだろ」

「自販機が空に上がってたから、お兄ちゃんここにいるんじゃないかなって思って」

「……さすがだべ、ちゃん。いや、誰でもわかるか」

「何っつーか、照れますね」

「照れてどうするんだよ、照れて」


 静雄の機嫌が一気に良くなったのがわかった。いまだ怯えている相手から踏み倒している料金を支払ってもらい、三人だけが残った。が、トムとしては少しだけ気まずい。先程から静雄が隣で立っているを頻繁に気にしている事が手に取るようにわかるからだ。
 それは仕方のない事か、と小さくため息をついた。今日もそうだが、この仕事ではよく静雄が怒りを爆発させる事が多い。日々の癒しは他にもあるだろうが、一番は何と言ってもなのだ。


「よし、今日は帰るか。寒いしな」


 お互いの気持ちには鈍感な二人を応援しているからか、どうしても甘やかしてしまう。


「お疲れっす、トムさん」

「おう」


 背を向け、二人に手を振る。少しだけ、二人が羨ましいと思いながら。
 トムを見送った後、静雄は空に舞った自動販売機を元の場所に戻した。元の場所に戻しても使えるかどうかはわからないが、道のど真ん中に置いてあるよりは幾分かはマシだろうと思ったからだ。


「お兄ちゃん、そんな恰好で寒くないの?」

「あ? 寒いに決まってんだろ」


 静雄の今の格好はいつもと同じだ。しかし、今日は寒い。は自分の首に巻いていたマフラーを取って、背伸びをしながら静雄の首にかけた。


「じゃあ、はい。私、お兄ちゃんよりは着込んでるから」


 マフラーを渡した事で少し首筋が寒く感じたが、バーテン服だけの静雄よりはかなり暖かい。


「マフラーだけじゃ寒いかもしれないけど……」

「……」

「お兄ちゃん?」

「え、あ、い、いや、その、何だ……ありがとな。嬉しいよ」

「よかった! じゃあ早く帰ろ?」


 ――びっくりした。


 上機嫌で前を歩くから少し離れたところを歩いている静雄は、首に巻かれたマフラーに視線を向けた。


 ――こういう展開って、本当にあるんだな。……っつーか、俺には一生無いって思ってた。


 先程の事を思い返すだけで、自分の顔が赤くなっていくのがわかる。


 ――あいつは、多分、俺の寒そうな姿を見て巻いてくれただけだろうし、変な期待はしたくねぇけど……しちまうだろ、くそ。期待するなっつーのが無理な話だ。


 少し遅れてやってきた甘酸っぱいやり取りに翻弄される静雄だった。




「――家の中も寒いなんて」

「当たり前だろ、俺ら以外に誰もいねぇんだから」

「そっか。そうだよね……。うう、寒い」


 ひんやりとした床を歩く。靴下越しに伝わる冷たさに、つい爪先だけで歩いてしまう。


「コーヒーか何か入れるか」

「私、ココアがいい!」

「はいはい。あ、そうだ」


 ソファーへと向かうを呼びとめ、静雄はマフラーを返した。


「ありがとな」

「もういいの?」

「淹れてる最中に汚れちまったら大変だろ。部屋寒いし、お前が巻いとけ」


 そう言って、今度は静雄がの首にマフラーを巻いた。返ってきたマフラーは、静雄の温もりがまだ残っている。冷たくなっていたの首筋は、すぐに温められた。
 ソファーに座り、コーヒーとココアの準備をしている静雄の後姿を眺める。一時期バーテンダーもやっていたと言う事もあり、その姿は様になっているように思えた。自分だけが見る事が出来る静雄の姿に嬉しくなり、マフラーを口元に上げて微笑んでいると、微かにマフラーから今まで無かった匂いがした。


「あ」


 微かに匂う、煙草の香り。
 がよく知っている、煙草の香り。


「ほら、出来たぞ……って、お前何してんだ」

「え!? あ、えっと、寒いなー、ココアまだかなーって思って!」

「ははっ……変な奴」


 ――お兄ちゃんの、匂いがする。


 いつもより近い距離にある匂いに、の心臓はいつもよりも速く動いている。


「やっぱ、寒い時には暖かい飲み物が一番だな」

「そ、そうだね」

「お前、まだ飲んでねぇだろ」


 言われてみればそうだった。はココアが入ったコップを口元に当てて、少し冷ます為に息を吹きかける。


「今から飲む……って、あつっ……!」

「そんなに急いで飲む事ねぇのに……舌、火傷したんじゃねぇか? 大丈夫か?」


 近くなる距離に、の顔は一気に赤くなる。目を開いて赤くなるに気付いた静雄の顔もほんのりと赤くなり、慌てて距離を開けた。
 気まずい空気が流れる。静雄を見ると、どうすればいいかわからないと言った表情をしていた。
 距離が近くなる事自体、嫌ではない。寧ろ嬉しくなる。
 ただ、二人とも距離が近くなる事に慣れていないだけなのだ。
 離れていては寂しい。でも、近いとどうすればいいかわからない。なのに、この開いた距離がもどかしく感じる。ほんの少しだけでもいい、縮める事が出来ればと――。


「あ、あのさ」

「あ、あのね」


 ほぼ同時に同じような言葉を発言した。静雄はに先に言うように促す。


「あ、あのね……あの、隣……」

「……隣?」

「隣、座っても、いい?」

「え、あ、あぁ。……いいよ」


 ぎこちなく返事を返すと、静雄のすぐ隣にが座った。腕と腕が触れる距離。お互いの体温が解かる距離に。
 ここまで近い距離で座ったのは初めてだ。自身、緊張からココアを持つ手が震えた。それでも、開きすぎる距離よりも、近い距離の方が好きだと思った。この緊張も、嫌いでは無い。


「……寒いのか?」

「え?」

「手、震えてるからさ」

「あ、えっと、これは……」


 緊張から来てるものだとは言えずに黙っていると、静雄の手がの手に触れた。


「冷たいな、お前の手。やっぱ寒いんじゃねぇか」

「ち、違うよ」

「じゃあ何だよ」

「あの……私、緊張すると……手が、冷たくなるみたいで」

「……緊張?」


 何に緊張しているのか気付き、手を離して再び二人の間に沈黙が流れる。
 は緊張の中ココアを口にした。冷たい外気のせいか、ココアはぬるくなっていた。


 ――飲みきっちゃおう。


 空っぽになったカップをテーブルの上に置く。すると、の手を静雄が握った。の手とは違い、静雄の手はとても暖かい。


「……お前の手が暖かくなるまで、こうしててやる」

「で、でも、私の手冷たいし、寒くない?」

「平気だよ」

「……そうだ!」


 マフラーを外し、静雄の首にかける。このマフラーは少し長めのマフラーだ。静雄の首に少しだけ巻いた後、は自分の首にも少しだけ巻いた。


「……結構暖かいな」

「うん、暖かいね。あ、そうだ。明日ストーブとか出しちゃおう」

「早くねぇか?」

「でも、今日みたいに寒いと大変だし……」

「ま、まぁそうだな……」


 ――少しだけもったいないって思うのは俺だけか。


 また変な期待をしてしまった自分にため息をつきたくなっていると、がおそるおそる口を開いた。


「……部屋が暖かくなると、くっつけないから寂しいけど」

「あー、そうだな……って、今、何て……!?」

「な、何でもない! 何でもないよ!」


 何度目かの気まずい空気が流れる。それでも、二人の距離は変わらぬまま、手はもちろん繋いだままだった。






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