「ただいま」
仕事を終え静雄が帰宅すると、家の様子がいつもとは少し違う事に気が付いた。
いつもならすぐに出迎えに来てくれるの姿が無い事も含まれているが、どこか家の空気が重たいように感じるのだ。
もしかしてに何かあったのか――。静雄は急いでリビングへと向かった。
「!」
「……ん、静雄さん?」
ぐったりとした様子でソファーに寝転がっている。エプロンを身に着けているところを見ると、どうやら夕飯の支度の最中だったようだ。
「大丈夫か? 顔色悪いじゃねぇか」
「ご飯作ってたんだけど……途中で気分が悪くなっちゃって……」
「風邪か?」
「うーん、そうかもしれない。ちょっと身体も重たいような気がするし」
の額に手を乗せて体温が高いかどうかを確認する。
「……熱あるな」
「やっぱり風邪みたいだね」
「俺が飯作るから、お前は寝てろ」
お粥でいいよな、と訊く静雄に首を縦に振り、は目を瞑った。
本当に突然だった。夕食の材料を買いに行き、帰ってくるまでは普通だったのだ。だが、いつもと同じように静雄の帰宅時間に合わせて料理を始めたときに、胸がムカムカするような、そんな感覚に襲われた。
――風邪とか久しぶりだなぁ。
そんな事をぼんやりと考えていると、お粥が出来たようだ。静雄の手を借りてゆっくりと起き上がる。
「無理するなよ、食べれる分だけでいいから」
「うん、ありがとう」
熱々のお粥を冷ましながら、ゆっくりと口の中に運んでいく。空腹だったのもあり、とても美味しく感じた。そのまま時間をかけてお粥を食べているときだった。
「……っ!」
――駄目……!
ガタッと大きな音を立てて立ち上がり、は口元を手で押さえながらトイレに駆け込んだ。心配になった静雄もの後を追う。
トイレのドアを開けっ放しにして蹲るを見て慌てて傍に近寄り、背中を摩った。
辛そうに表情を歪めている。額に脂汗が滲んでいた。
「ご、ごめん、ね……」
「謝る必要なんかねぇだろ」
「……ん」
「マシになったか?」
小さく頷くに、静雄は彼女を抱きあげた。向かう先はもちろん寝室。ドアを開き、なるべく衝撃を与えないようにとおそるおそるベッドに寝転ばした。
すぐにキッチンへ行き、冷蔵庫に入っていたポカリスエットをコップに入れての元へと戻る。
「飲めるか?」
の上半身だけを起こし、自分の身体に凭れさせた。コップを口元に近づけ、口が少し開いたのを確認するとゆっくりとコップを傾けた。
「……ありがとう、喉、乾いてたから」
「明日、病院に連れてってやるからな。だから、今日はもう寝ろ」
片付けを済ませたら俺もすぐに寝るから、と静雄は寝室を出た。
「……パジャマに着替えないと」
――でも、動くのしんどいや……。
ぼんやりとする意識の中、は目を閉じた。
――翌日。
が目を覚ますと、隣で寝ているはずの静雄の姿は無かった。しかし、まだ温かい。起きてまだそんなに時間が経っていないのかもしれないと、はベッドから起き上がりリビングへと向かう。
「あ、起きたか」
「おはよう、静雄さん」
「おはよう。調子はどうだ? まだしんどいか?」
「ううん、昨日よりはだいぶマシだよ。ありがとう」
そうか、と静雄は優しく微笑んでの頭を撫でた。
「とりあえず、今日は病院に行くぞ。一応診てもらった方がいいしな。俺もついていく」
「え、でも仕事は?」
「さっきトムさんに事情を話して、仕事に遅れる事は伝えたから大丈夫だ」
朝食を少しだけ食べて、準備をする。まだ本調子では無いが、昨日とは違って食べ物を口にしても気分が悪くなる事は無かったので、二人は少し安心した。
ゆっくり歩いて病院へと向かう。新羅の元へ向かわずに病院に行く理由は、電話で『まぁ僕は医者だけど、薬の処方は出来ないから、普通に病院に行った方がいいよ』と言われてしまった為だ。
「この場合って、内科になるんだよね?」
「……そう、だと思う」
不安を残しながらも、二人は平日で人も疎らな道を歩いて行く。
病院に着くと、受付を済ませた。平日の午前中に来たからか、患者は少ない。はすぐに呼ばれた。
「それじゃ、行ってくるね」
「あぁ、ここで待ってるよ」
診察室に入るを見送り、静雄は待合室の椅子に腰を下ろした。待っている患者の為に流されているニュースの方に視線を向けながらも、内容は一向に頭の中に入ってこない。
視線を下ろし、そわそわと何度も手を組みかえながら、が帰ってくるのを待った。
――あんなに衰弱した姿なんて初めて見た。
昨日の辛い表情をしたを思い出す。風邪が治るまで傍にいてやろうと思ったとき、診察室の扉が開いた。
「終わったのか?」
「あ、えっと、ごめんなさい。もうちょっとだけ待って!」
診察室から出てきたの手にはカップ。静雄に謝りながら、すぐさまトイレへと入って行った。
数分後、やはりカップを手にしたが出て来た。そのまま診察室へと向かうのかと思いきや、は産婦人科の方へと向かって行った。
「……何で産婦人科?」
気になった静雄は受付へ向かい、看護師に話を聞く事にした。
「少々お待ち下さい。医師に話を聞いてきます」
看護師は医師の元へと向かい、すぐに医師と共に静雄の元へとやってきた。会釈し、早速の話を訊く。何故産婦人科に向かったのか。
静雄に訊かれた医師はにっこりと微笑んで答えた。
「きちんと検査を受けてみないとわかりませんが、奥様は妊娠している可能性がありました」
「妊娠?」
その言葉に驚いていると、検査を終えたが姿を現した。下腹部に手をやり、どこか感慨深そうに撫でている。
「!」
「あ、静雄さん! あのね、お腹の中に、赤ちゃんがいるって!」
「……え?」
「妊娠二ヶ月だって! 私のお腹の中に、静雄さんと私の赤ちゃんがいるんだよ!」
「そ、それ、本当なのか!?」
驚きを隠せない静雄に、は何度も首を縦に振り、抱きついた。
「俺との子供……ははっ、やったな!」
妊娠の可能性があると産婦人科の受診を勧められ、検査をすると陽性反応が出た。医師から妊娠している事を告げられた時の喜びは計り知れない。
受付で支払いを済ませ、二人は病院を出る。
「見た目はわかんねぇけど……腹ん中にいるんだよな、その……俺と、の子供が」
普段と変わらないの腹部を見る。静雄の言う通り、見た目ではが妊娠している事はわからない。だが、の中には静雄との子供が確かにいるのだ。そう思うと、静雄の中で嬉しさが込み上げてくる。
「でも、すぐにお腹大きくなるって言ってたよ」
「そんなもんなのか?」
「うーん、初めてだからよくわからないけど……」
そこで静雄は気付く。は初めての妊娠なのだと。隣を歩いているの肩をがしりと掴み、振り向かせる。
「お前、歩いて大丈夫なのか!?」
「……え?」
「やっぱタクシー呼んでおけばよかったな。そうだ、俺がおんぶしてやるよ」
安静に、と医者からは言われている。何せ初めての妊娠。何もかもが初体験であり、不安だらけだ。少し恥ずかしいが、ここは静雄の好意を素直に甘えようとおんぶしてもらう事にした。
静雄は身長が高い。おんぶしてもらう事により、の目線はいつもより高くなる。
「……男の子だったら、静雄さんに似て身長が高くなりそうだね」
「女だったらに似てお転婆だろうな」
「え、何それ」
「何だよ、元気でいいじゃねぇか」
そのままは家まで送ってもらい、静雄は仕事に出かけた。リビングから見送った後、携帯が震えた。
『家事も俺がするから、安静にしてろよ』
わかった、と返信し、は寝室で眠る事にした。
――おかしい。
静雄の上司であるトムは、すぐに異変に気付いた。
どこかそわそわしている静雄。携帯電話で時間を確認してはポケットに入れ、数分も経たない内にまた時間を確認する為に携帯電話をポケットから取り出す。
気になって仕方がないと、言葉を選びつつトムは静雄に質問をした。
「腹減ったのか?」
「や、別に減ってませんけど」
「ならいいべ。さっきから時間ばっか気にしてるみたいだからちょっと気になったんだわ」
「……俺、そんなに時間気にしてました?」
おう、と頷くと静雄は頭に手をやってどこか照れくさそうな表情を浮かべた。
「実は――」
「ただいま」
「お帰り、あれ、今日は早かったね」
「あー、トムさんがな、早く帰ってやれって言ってくれてさ」
静雄の言葉通り安静に過ごしていたの隣に腰を下ろし、ネクタイを外す。
「俺、仕事中に時間ばっか気にしてたみたいでさ」
「時間? どうして?」
「……お前が心配だったからに決まってんだろ」
カッターシャツの一番上のボタンを外し、と同じようにソファーの背もたれに体重をかけた。
「それで、全部話したんだよ。今日の事」
静雄からが妊娠した事を聞いたトムは驚きつつも祝福をしてくれた。『お前も父親になるんだな』と肩を叩かれ、誰かに祝福される喜びを実感したのは言うまでも無い。
そのまま二人で仕事を続けていたが、夕方になりサラリーマン達が帰宅する時間になるとトムは静雄に帰るように言った。まだ仕事は終わっていないのにと不思議に思っていると、トムがため息をついた。
『ちゃんも初めての事だから心細いだろ。そんなときにお前が傍にいなくてどうするんだ』
「社長の方にもうまく言っておくから、しばらくは早く帰れってさ」
「そっか……トムさんにお礼言わないとね」
「そうだな。あの人には世話になりっぱなしだ」
こうして周りに支えてもらいながら、お腹の子供は順調に大きくなっていった。
――数ヵ月後。
「おい、大丈夫か?」
「大丈夫だよ。重たい物とかは持てないけど、これぐらいはさせて?」
「……無理すんなよ」
「うん」
安定期に入り、の腹も大きくなっていた。たまに中から蹴られる事があると嬉しそうに報告してくれた事は今でも鮮明に静雄は覚えている。
だからこそ心配だった。何かあってはいけないと、家の中で移動するだけでも、出来るだけの傍にいるようにしている。
「あ、また蹴られた!」
「元気だな」
「本当、すっごい元気」
そっと触れ、撫でる。撫でられているのがわかるのか、その部分をまた蹴られた。
「ね、この子、私が触ってる部分を蹴ってくるんだよ。わかるのかな?」
「どうだろうな」
「じゃあ、静雄さん触ってみて?」
の言葉に静雄は視線を逸らした。触ってみたい――そうは思っても、中々触れずにいる。その理由に、もちろんは気付いていた。
気付いていたからこそ、触れてほしかった。小さな命に、触れて欲しかった。
静雄の手を取り、ぎゅっと握る。
「……も、わかってんだろ? 俺が触れない理由」
怖いんだ、と静雄はぽつりと漏らす。
「怖いんだよ、俺は。俺に触れられて、嫌がられるんじゃねぇかとかさ……いろいろ考えちまって」
の手をぐっと握った。静雄の手は微かに震えているような気がした。
触れたいと思う。だが、自分自身の強すぎる力で触れると、嫌われるのではないか。壊れて、しまうのではないか。そう思っていた。
「そんなことない。それに……静雄さんに触れてもらえないほうが、子供は、この子は悲しむよ」
――だから、触れてあげて?
おそるおそる手をの腹に近づけ、触れる。すると、その部分に軽く衝撃が来た。中にいる子供が蹴ったのだ。
「……あ、今」
「静雄さんに、『お父さん』に触れてもらえて、嬉しいんだよ」
すると、静雄はしゃがみ込み、そっと中にいる我が子に話しかけた。
「……ごめんな、今まで触れてやれなくて」
また小さな衝撃が伝わって来た。まるで会話をしているような気分になり、二人は笑みを零した。
「男でも女でも、元気な子が生まれてくるのは間違いないな」
「あはは、そうだね」
二人で並んでソファーに腰を下ろし、膨らんだ腹を撫でる。の中に宿る、静雄との子供は二人から撫でられているのが解かるのか、度々の腹を蹴っていた。
「……可愛いな」
「ね、可愛いね」
子供が生まれるまであと数ヶ月。二人は、お腹の子供に話しかけながら、ただひたすら会えるのを待ち続けた。
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