その異変は、数日前から起こっていた。
「……っ!」
がたりと大きな音を立てて立ち上がり、は口を押さえてトイレへと駆け込んだ。ドアは閉めてるが、苦しそうに時折咳き込む様子が伺える。
数日前からこの調子であり、心配になった京平はドア越しではあるがに声をかけた。
「大丈夫か?」
「だ、いじょうぶ……」
疲れ切った表情でトイレから出てくるを支える。大丈夫かと声をかけつつも、やはりと京平はこの数日間の出来事から導き出した『答え』に確信を得た。
「ちょっと待ってろ。何か飲み物持ってくる」
ガラスコップに注がれるスポーツ飲料。それをに手渡し、隣に座る。
「なぁ、こんな事訊くのもまぁ何だけどよ……」
「?」
「お前、ちゃんと毎月来てるのか?」
その言葉に、は手に持っていたガラスコップを落としそうになった。
京平が言いたい事はわかる。女性ならば月に一度来るものが毎月きちんと来ているのか訊いているのだ。
「……実は、二ヶ月ほど来てなくて」
最初は、ただの不順だと思っていた。
京平と結婚して半年になるが、生活は今までとがらりと変わってしまった。その結果、変化に身体が追い付かなく、来ない月が度々あったりしたためだ。
「飯の時に来る吐き気……俺もいろいろ考えてたんだが、、お前――」
一呼吸置いた。そして――。
「妊娠、してんじゃねぇか?」
京平の言葉に、は小さく、え、と声を出していつもと変わらない腹部を撫でた。
「……やっぱり、赤ちゃんが?」
「もしかして、お前も同じ事思ってたのか?」
「今週いっぱい様子を見てから、妊娠検査薬を買いに行こうかなって思ってたんですけど……」
どうやら自身も薄々気付いてはいたようだ。ただ、自信を持てずにいたようで、今週は様子を見て、このまま吐き気などが続くのであれば、妊娠検査薬を購入し、確かめるつもりだった。そして、反応が出れば京平に報告しようと、そう思っていた。
「でも、京平さんも私が『妊娠しているかも』って思ってたなんて知りませんでした」
「……見てりゃ何れ気付く事だろ?」
「あ、そうですよね。京平さんの目の前で何回も気分悪くなってましたし……」
「そういう意味じゃねぇんだけどなぁ……」
「え?」
意味がわからないと不思議がるに、京平は肩を竦めながら笑みを零した。
「とにかく、今は『妊娠しているかもしれない』って状態だ。無理はするな。渡草に連絡入れておくから、明日病院行くぞ」
「ありがとうございます」
「よし、だったらもう寝るか。そうだ、寝室まで運んでやるよ」
「え!? い、いいですよ、このくらいの距離なら歩けますよ!」
確かにまだ調子は良くないが、ここから寝室までの距離はそんなに無い。普通に歩ける距離だ。両手を顔の前で振り、大丈夫だと京平に言う。が、どうやらの負けのようだ。
「俺に甘えろよ、な?」
「わ、わ、京平さん!」
抱き上げられ、の顔は真っ赤になった。すぐに顔に出るに、京平は肩を揺らして笑う。もう、と少し拗ねる割には身体を京平に預ける。
「素直じゃ無いな、うちの姫さんは」
「べ、別にツンデレとかじゃないですよ?」
「はいはい」
ゆっくりとベッドに下ろし、を寝かせる。ベッドの端に座り、の頭を撫でた。
「あの、もし、もしですよ」
「何だ?」
「もし、本当に私のお腹の中に赤ちゃんがいたら……産んでも、いい?」
「何言ってんだ、当たり前だろうが。俺とお前の子供だぜ? 産んでほしいに、決まってるじゃねぇか」
産んでほしい。その言葉に、はほっと胸を撫で下ろした。
「……ほら、早く寝ろ。俺も片付けが終わったら寝るわ」
「おやすみなさい」
「あぁ、おやすみ」
――翌朝。
二人で朝食を食べ、病院へ行く準備を済ませた頃に渡草が来た。
「……おい、何でお前らもいるんだ?」
「え? それ訊いちゃうのドタチン?」
「訊いちゃうんすか門田さん?」
「……もういい、もういいから黙ってろ」
はぁ、とため息を零すと、狩沢と遊馬崎の興味は京平の隣に立っているに興味が移ったようだ。全身を確かめるように、二人でのあちこちに目を向ける。そんな二人の首根っこを掴み、京平はずるずると引き摺りながら渡草のバンへと向かった。
その場に残されたと渡草は、お互い顔を見合わせて疲れた笑みを零した。
「……朝からあいつらテンション高すぎなんだよ」
「あはは……でも、ありがとうございます。助かりました」
「いいよ、気にすんな」
と渡草もバンに乗り、目的地である病院へと向かう。
「楽しみっすねぇ! もし赤ちゃんが出来てたら……俺と狩沢さんは叔父と叔母になるんすねぇ……」
「違うよゆまっち。私達は兄と姉になるんだよ」
「おいお前ら。いつから俺達と親類関係になったんだ」
「え? それ訊いちゃうのドタチン?」
「訊いちゃうんすか門田さん?」
「もういい……訊いた俺が馬鹿だった……」
バンの中はいつも以上に騒がしい。狩沢と遊馬崎のやりとりに深い深いため息をつく京平だが、嫌そうな顔はしていない。寧ろどこか幸せそうな表情を浮かべていた。
病院が見えてくる。待ち受けている検査にどこか緊張していたが、幾らか和らいでいた。
バンを下り、は京平を見た。
「それじゃ、行ってきますね」
「あぁ、俺は……俺達はここで待ってるから」
病院の中へと入って行くを見送り、京平はバンの中で帰りを待った。
「――これほどまでに時間を長く感じるとはな」
「しょうがないっすよ、門田さん。そんなもんっす。俺も、前に握手会があって並んでるときは時間が長く感じたっすよ」
「そうか……いや、実は俺もサイン会の時に」
「狩沢、俺の真似をしながら実体験を話すのはやめろ」
「これからが良いところだったのに……」
――こいつらは……!
「だって、ドタチン元気無いんだもん。ね、ゆまっち」
「だからってお前らは静かに待てねぇのか」
「いやぁ、それ程でもないっす……」
「おい、褒めてねぇぞ」
呆れた表情でつっこんでいると、漸くが病院から出て来た。とても嬉しそうな笑顔を浮かべ、バンの中で座っている京平に手を振った。
バンの扉は開いたままだ。京平は急いでの元へと向かった。
「どうだった?」
「お腹の中に、赤ちゃんがいるって! 妊娠二ヶ月だって言われました」
「やったな、……!」
感極まり、を抱きしめた。背中に手を回そうとが腕を伸ばした時、ちらりと見えた京平の背後では狩沢と遊馬崎が自分達と同じような格好で抱きしめあっていた。
「京平さん……!」
「……!」
「お前らなぁ……せっかくの良い場面が台無しだろ……」
バンから下りていた渡草は二人の頭を軽く叩く。しかし、そんな渡草も嬉しそうに笑みを浮かべていた。
京平とはバンに乗り、二人で座り、狩沢と遊馬崎は二人の後ろに座った。
「あ、そうだ。ドタチン、私ね、名前考えたよ!」
「……嫌な予感がするのは俺だけか?」
「女の子だったら『リン』で男の子だったら『レン』……」
「なるほど! 双子の女の子と男の子だったら『リン』『レン』で……ボーカロイドっすね!?」
「そうそう!」
勝手に言ってろ、と京平は頭を抱えた。京平の隣に座っているは、嬉しそうに腹部を撫でていた。
――私の中に、赤ちゃんがいるんだ。赤ちゃんが……!
二ヶ月。今は安静にしておかなければいけない時期だ。医師からも安静にするようにと言われている。しばらくは外出を極力控え、家にいるようにしようか。重たい物も持たないようにしないといけない。そうなると、一番影響を受けるのは家事だ。
どうしようか――が悩んでいるとき、京平が話しかけてきた。
「あまり無茶はするなよ。何かあったら、すぐに連絡しろ。仕事中でも構わねぇ」
「はい、ありがとうございます」
「あぁそうだ、何か必要なものがあったら書いて渡してくれ。俺が買いに行ってくるから」
「……助かります。ありがとう、京平さん」
――本当に、ありがとう。
初めての妊娠。何もかもが初めてだ。
その不安を、その悩みを、共に共有し、支え合っていかなければと二人は強く思った。
――数ヵ月後。
の腹が目立つようになってきていた。
「門田さんは将来子煩悩になりそうっすねぇ……」
「そうだねゆまっち……。子供を肩車して野原を超笑顔で駆け回るドタチンが想像出来るよ」
「……言いたい放題だな、お前ら」
が心配なのと、子供の様子が気になる京平は、定期検診には毎回付き添っていた。もちろん、渡草に病院まで連れて行ってもらっていたが。
今は仕事帰りに偶然会い、三人で途中まで一緒に帰っているところだ。
「あ、とらのあな!」
「そういえば今日はまだ本買ってないね。行こっか!」
「それじゃ、俺達はこの辺で失礼するっす!」
「またねー、ドタチン」
おう、と片手を振り、京平はズボンのポケットから携帯電話を取り出した。電話帳からを探し、電話をかける。
「……俺だ」
『京平さん! お仕事、終わったんですか?』
「今さっきな。もうすぐ着く」
『あ、見えた!』
その言葉に少し顔を上げると、ベランダから手を振るの姿が見えた。
「ただいま」
「おかえりなさい!」
――家に入ると、は未だベランダで立っていた。
「おい、風邪ひくぞ」
「あと少しだけ、あと少しだけですから」
空を見上げたままこちらを向こうとしないに、何かあったのかと京平もベランダに出た。隣にいると同じように空を見上げる。
京平の目には綺麗に輝く星達しか見えないが、もしかするとは自分とは違う何かを見ているのだろうか。
好きにさせるか、そう思ってベランダを出ようとしたときだった。服を掴まれ、後ろに少し引っ張られた。
「……どうした?」
「あ、ごめんなさい……何でも、無いです」
手を離して背中を向ける。その背中が少しだけ震えているような気がして、京平は後ろから抱きしめた。
「……何があったんだ?」
「……わ、私、怖いんです」
「怖い?」
「ちゃんと、お母さんになれるのか。……そう思うと、怖くて」
自分に母親が務まるのか。の不安はそこにあった。
泣いているのか、の涙が京平の手に落ちる。
「怖くて、怖くて……不安なんです」
「……子供と一緒に成長していけばいいじゃねぇか」
「え?」
「子供と一緒に、俺達も成長していくんだよ。父親として、母親としてな」
――成長、していく。子供と、一緒に……。
「だから泣くな」
小さく頷き、京平と向き合う。京平が目尻に溜まった涙を拭ってやると、は彼に抱きついた。
「ほら、部屋に入るぞ。身体に障る」
顔を上げようとしないに、京平は無言で抱き上げた。小さな子供みたいだと頭を撫で、ソファーに下ろす。
「私、成長出来るかな……」
「出来るさ」
「本当?」
「には、俺がいるだろ。出来るに決まってる」
すると、中にいる子供が動いた。京平との話を聞いて、自分もいる、と自己主張しているような、そんな気がした。
「……そうだな、には俺とお前がいるな」
「……ありがとう」
京平に、そして小さな小さな我が子に元気づけられ、は目に涙を浮かべつつ、柔らかい笑みを浮かべた。
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