至福の時、と言うものは、誰にでもあるだろう。
 この上もない幸せな時――臨也にとって、それは今この瞬間だった。


「それでね、その子は『天国はある』って言うんだよ」

「……そ、そうなんですか」

「でも理由はとてもつまらなかったなぁ。ありきたり、夢見がち、本当につまらなかった。だから、君に話した時点でその子の事は俺の記憶の中から消去する事にするよ。不要なものをいつまでも持ちたくないし。で、次はね……」


 この時間だけは、臨也はいつも以上に饒舌になる。気分が高揚しているのも更に拍車をかけているのだろう。反面、話を聴いているは沈んだ表情をしている。返事もとても暗い。目の前にいる臨也と目を合わそうともせず、早くこの場から立ち去りたいのか、そわそわと足を動かしている。
 だからこそ、臨也は楽しいのだ。
 こうして、異性の話をする事が。
 臨也の話を聴いて、話の中に出てくる異性に嫉妬するを見る事が。


「あ、あの……もう、いいですか?」

「駄目だよ、駄目。まだ全部話せてないからね。俺が全部話終わるまでは帰らせないよ」


 耐えかねたが家に帰りたがっても、臨也は決してそれを許しはしない。見続けたいのだ、を。顔も知らない、名前も知らない、どんな素性かも知らない異性に嫉妬するを。
 今話している異性が、臨也が作り出した架空の人物だとしても、この世に存在する者として嫉妬するを。


 ――楽しい、楽しすぎるよ! 俺を愛してくれているのが伝わるよ。君は今、本当に俺だけを愛してくれてるんだね。だからまったく存在しない女の話をしても、その女に嫉妬する。女の嫉妬は醜いって言うけど、の嫉妬なら大歓迎だよ。だって、それは俺を、俺だけを愛してくれてる証拠なんだからさ。


 そんなを、とても愛しいと思う。
 臨也にとって、これもまたへの愛の表現なのだ。それが例え歪んでいようとも、臨也に言わせれば一つの愛の形。愛の表現。
 理解してもらおうとは思っていない。への愛は、自分だけが理解していればいいのだ。


「どうして泣いてるの?」

「……もう、嫌です」

「何が? 俺の話を聴く事が?」

「……」

「俺が女の話するのは嫌? ねぇ、。俺が訊いてるんだよ、ちゃんと答えなよ」

「い……嫌です……。聴きたく、ない」


 臨也の気分が、更に高揚する。ぞくりと何かが足元からせり上がり、小さな笑い声が漏れた。思わず震える身体を抱き締める。


 ――いいねいいねいいね! たまらないよ! あぁたまらない!


 束縛したいのなら、すればいい。もっと求めたければ、貪欲に求めればいい。
 それらが全て自分に直結するのなら、臨也は構わない。寧ろ、とても喜ばしい事だ。ただ、それを素直に受け入れるかと訊かれれば、否定するが。


 ――受け入れてしまえば、こんなはもう見れない。それはとてもつまらない事だよ。逆を言えば、俺が受け入れなければ、俺は、ずっとずっとずーっと、こんなを見る事が出来る。それはとても幸せな事だよ。


「何で、何でこんな話ばっかり……もう、嫌です……」

「じゃあ、別れる?」

「え……?」

「いいよ、別れても。それじゃ、バイバイ」


 別れるなど、嘘に決まっている。臨也自身が、から離れる事が出来ないのだから。それでも敢えて別れを切り出すのは、から縋りつかせる為。ひらひらと手を振り、書類を眺めるふりをする。
 臨也の読み通り、は縋りついて来た。あまりにも予想通り過ぎて、再び笑みが零れる。


「や、嫌です、別れたくないです……! 臨也さんから、離れたくない……!」

「だよね? 離れたくないよね?」


 ――離れたくないのは、きっと俺の方だけど。


「ねぇ、。俺はね、君を愛してるよ。これは本当だ、とても……愛してる。でもね」


 ――愛してるよ、とてもとても愛してる。愛してるから、俺の愛を受け取ってよ。それが、歪んで、歪んで、歪んで、形がわからなくても。人間達の基準で言う『愛』とは違っていても。


「人間も愛してるんだよ。わかる? 俺は、を愛しているのと同時に、人間も愛してるんだ」


 ――愛してるんだ、君を。愛してる、愛してる、愛してる。


「臨也さんは、私だけを愛してはくれないんですか……?」

「人間への愛と、への愛は違うものだよ。ただ表現する言葉が同じだけだ。あはははっ! 残念だよねぇ。ねぇ、そう思わない? 違いを表現したいと願っても、言葉では限界がある」

「ごめんなさい、よくわからないです……」

「ははっ! 大丈夫、わからなくてもいいよ。これは俺だけがわかっていればいい事だからさ」


 理解してほしいとは思っていない。ただ、受け入れてくれさえすればいいのだ。
 席を立ち、わざとらしく靴音を立てて、に近づく。ソファーに座って俯いているの前で膝を付き、頬に触れ、そのまま己の方へと向かせた。涙が目尻から溢れ、臨也の手を濡らす。


「俺の事、好き?」

「好き、です」

「愛してる?」

「……愛してます」

「俺もだよ。の事好きだし、愛してる」


 その言葉に、嘘偽りは無い。


「だからさ、泣かないでよ」


 目尻に口付け、少しだけ舌を出して舐める。泣かせてしまう事に、罪悪感などまったく感じない。の涙の味に喜びと幸せだけを感じている。
 最初は、普通だった。その辺の恋人同士のような、そんな関係。どこかに出掛けたり、手を繋いで歩いたり、キスをしたり、抱き締め合ったり、愛を確かめあったり。
 いつからだろうか、の感情全ての根源が自分であればいいのにと、そう思うようになった。喜びも、怒りも、悲しみも、楽しみも、その始まりは全て自分にあればいいと願うようになったのだ。
 心、身体、そして、感情。が持っているもの全てが欲しい。全てを手に入れたい。
 誰にも、取られたくない。何も渡したくない。子供の様な我儘から生まれた独占欲。その独占欲は、いつしか臨也の思考を支配するようになった。


「臨也さん、臨也さんっ……!」

「あはははっ! まるで子供みたいだね! そんなに抱きつかなくても、俺はどこにも行かないよ?」


 泣き喚く子供を慰めるように、臨也はを慰める。心中で自分自身を嘲笑った。子供なのはどちらなのかと。
 彼を離すまいと抱きつくを抱き締めながら、満足感と安堵感に満たされている臨也。依存しているのはではなく、紛れもなく臨也なのだ。を心の底から欲し、離したくないと思っている。は臨也はどこかに行ってしまうのではないかと不安がっているが、その不安は臨也の方がとてつもなく大きい。自分が目を離した瞬間、がどこかに消えてしまうのではないかと、常日頃から不安として臨也の中に存在している。の周りに、彼女を大切に想っている人間が多すぎる為だ。


「そんなに離れたくないなら、今日は泊まっていく?」

「え、いいんですか!?」

「うん、いいよ」

「あっ……でも、お兄ちゃんから早く帰るように言われてて……」

「……あぁ、シズちゃん?」


 余計な事をしてくれる、と臨也は苛立った。静雄はを大切に想っている人間の中で特に彼女を大切に想っている存在だ。が臨也だけを見て臨也だけを感じるようになった今でも、静雄は彼女のどこかで存在している。それが臨也にとっては邪魔で仕方が無かった。


「ご、ごめんなさい」

「いいよ、謝らなくて。は悪くないよ」


 悲しげな表情を浮かべるを安心させるかのように臨也は笑みを浮かべる。しかし、すぐに表情が曇った。先程の会話で、少し前のとある出来事を思い出してしまったからだ。
 それは、臨也が忘れたくても忘れる事が出来ないものとなった出来事。


「……前に、シズちゃんに会ったよ」

「お兄ちゃんにですか?」


 は驚いた。臨也と静雄は仲が悪い。会えばすぐに喧嘩になる程だ。


「最近、の様子がおかしいって言われたんだよね」

「私の様子がおかしいって……」


 そのときの静雄の様子は、今でも覚えている。臨也にとっては早く消去してしまいたい記憶なのだが、焼き付いて離れない。


が、感情を表に出さなくなった。俺は! ……俺は、が幸せだって言うから、てめぇみてぇなノミ蟲野郎と付き合う事を許したんだ。なのに、何だよ。何では何も映さなくなったんだよ! 何も感じなくなっちまったんだよ! に何したんだよ!』


「あの、私の様子がおかしいってどういうことですか? 私、そんなにおかしいですか?」

「ううん、おかしくないよ。おかしくなんかないさ。は何もおかしくない」

「そ、そうですよね。おかしくなんか……無いですよね……」


 ――はそれでいいんだ。……おかしいのは、シズちゃん。君だよ。


 の異変に気づき、真っ先に臨也を疑った。相変わらずの静雄の勘の鋭さに、思わず拍手を送りたくなった程だ。


は俺だけを見て、俺だけを感じて、今まで以上の幸せを感じてる。それの何がいけないのか俺にはさっぱりわからない』

『……ふざけんな! それはてめぇの幸せだ、の幸せじゃねぇ! てめぇが幸せになる為の道具としてを使うんじゃねぇよ!』

『言ってくれるね。でも、は俺の愛を受け入れたよ? 受け入れた上で、俺を愛してくれてる。……どういう意味かわかる? は俺を受け入れてくれてるんだ。歪んだこんな俺をさ。ねぇ、シズちゃん。それでもが幸せじゃないって言い切れる?』


 ――あの後は悲惨だったなぁ。力いっぱい殴られて飛ばされるし。


 静雄に言われた事は、認めたくなかった。認めたくないが、些か当たっている部分もある。


 ――が俺だけを見て、俺だけを感じる事に、俺はとても幸せを感じている。その点は、シズちゃんの言う通りだよ。


「臨也さん? どうかしましたか?」

「何でも無いよ」

「……じゃあ、どうして泣いてるんですか?」

「は? 俺が泣いて……」


 目元に触れると、指が濡れた。の言う通り、臨也は涙を流していたのだ。何故涙を流しているのか、臨也自身もわからない。
 だが、何故か目の前にいるがとても愛おしくて堪らなくなった。己の欲望に身を任せてを抱き締める。腕の中にがいると言う事実が、臨也を安心させた。


「……ねぇ、。君だけなんだよ、俺を理解してくれるのは。俺の愛を受け入れてくれるのは」

「拒否なんてしないですよ、する訳無いじゃないですか。私は、臨也さんが好きなんです。……愛してるんです」


 感情も何もかもを征服したいと思っているのは、全てへの愛ゆえ。普通の人間ならば、受け入れてもらう事がとても難しい事だろう。
 だが、は受け入れた。臨也の愛を。そして、同時に臨也を愛した。
 だから臨也は確認する。どんな手を使ってでも、の臨也への愛を。自分の愛は受け入れられ、愛されているのだと実感する為に。


 ――ごめんね、。俺は歪んでる。でも。


「ありがとう、


 ――受け入れて、くれるよね。


「俺も、愛してるよ」


 ――俺を愛してる、君なら。







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