部屋にあるカレンダーを見てはため息をつく。先月、先々月と遡り、再びため息をつく。もう今日一日で何度繰り返したかわからないほどだ。
日付を気にする理由は、今のが抱えている悩みにある。それは――。
「もう二ヶ月も女の子の日が来てないよ……」
同性の波江に相談しようかと思ったが、いつも仕事で忙しそうにしている。邪魔は出来ない。
「こうなったら最終手段……臨也さんに、相談してみようかな」
――臨也さんなら、何でも知ってそうな気がする。
相談内容からして、異性に言うのは少し躊躇いがあるが、臨也はの夫だ。よし、と意気込んでいると、玄関のドアが開いた。臨也が仕事から帰って来たようだ。良いタイミングで帰って来てくれたと、は臨也を出迎える為に玄関へと向かった。
「臨也さん、お帰りなさい」
「ただいま」
ジャケットを脱ぎ、に手渡す。臨也から受け取ったジャケットをハンガーにかけて、クローゼットの中に仕舞った。
「で、何?」
「え?」
「何か俺に話があるんだろ? そんな顔してるよ」
何でもお見通しなのかと驚いていると、ソファーに座っている臨也がぽんぽんと自分の隣を叩いた。は臨也が叩いた場所に腰を下ろす。
「何かあった?」
「……実は、その……来ないんです」
「来ないって?」
「女の子の日が、来ないんです」
女の子の日、と言われ、臨也はあぁ、と納得した。
「いつから?」
「多分……二ヶ月ぐらい前から」
「え、二ヶ月?」
二ヶ月と言う月日に、臨也は何か心当たりがあったようだ。少しだけ驚いた表情を見せ、すぐに何かを思案するような表情に変わった。しかし、それもほんの数秒。至極楽しそうに口元を歪め、隣に座っているの手を握る。驚いていると、握られた手は下腹部に当てられた。
何かわかったのだろうかと臨也に訊こうとした時、臨也は急に立ち上がった。そのままの前を通り、先程仕舞ったジャケットを手に取った。
「臨也さん?」
「ちょっと待ってて、すぐに帰るから」
どこか嬉しそうな声色。に手を振って、臨也は再び外へ行ってしまった。
呆然とその様子を見ていたはドアの閉まる音で我に帰り、急いで臨也のデスクの後ろにある大きな窓に近づいた。マンションから出て来た臨也は、スキップしながらどこかへと向かって行く。
「……こんな時間に、どこに行くんだろう」
不思議に思いながらも、臨也の『すぐに帰る』と言う言葉を信じて待った。
――数十分後。臨也が帰って来た。手には小さな紙袋。中に何が入っているのかは知らないが、どうやら薬局へ向かったようだ。何故薬局なのだろうと考えていると、紙袋は臨也からへと手渡された。
「使い方は中に入ってる箱に書いてあるから、その通りにすれば大丈夫」
「何ですか、これ」
「紙袋から出せばわかるよ」
言われた通りに出すと、中から出て来たのは――。
「妊娠、検査薬?」
ほら早く、と背中を押され、トイレに押し込まれる。
臨也からちゃんとした説明は無く、何が何だかわからないまま、はその妊娠検査薬を使用する事になった。何故この妊娠検査薬が必要なのか。それが、の疑問を解消すると言うことなのだろうか。そんなことを思いながら。
「……え?」
反応が出ていた。急いで箱を見ると、どうやら陽性反応だ。
その陽性反応に驚いたは、慌ててトイレから出て臨也の元へと向かった。
「い、臨也さん、こ、これ!」
「反応出ただろ?」
――臨也さん、まるで陽性反応が出るって解ってたみたい……。
「でも、それは簡易検査に過ぎない。明日、ちゃんとした病院で診てもらった方がいいよ。俺も一緒に行く」
だから今日はもう寝た方がいいと寝室まで付き添ってもらい、は眠る事にした。
陽性反応が出たときの興奮は未だ冷めない。布団の中で、は自分の下腹部あたりに手を当てた。
――私のお腹の中に、本当に赤ちゃんが? 臨也さんと、私の……。
「――、起きて。病院に行くよ」
軽く揺さぶられ、は薄らと目を開ける。すると、目の前に朝からとても清々しい笑顔を浮かべている臨也がベッドの端に座っていた。
「臨也さ……ねむ……」
「病院から帰って来たら好きなだけ眠るといいよ。俺も眠たいし。でもその前に病院に行かないとね。さっ、早く着替えて、朝食も食べて」
ほらほら、とどこか上機嫌な臨也に上半身を起こされ、手を引っ張られる。
「あぁ、でも早く食べるのは身体に悪いね」
ゆっくり食べた方が良いと一人頷きながらをソファーに座らせた。目の前にあるガラス張りの机には、臨也が作ったのだろう、フレンチトーストが置かれていた。いただきます、と手を合わせて臨也に言われた通りゆっくり食べていると、クローゼットの中から今日が着る服を持ってきた臨也が横に座った。
子供のようにはしゃぎ、落ち着きのない臨也。こんな臨也は初めて見るような気がすると思っていた時、臨也はぱんっと両手を叩いた。
「そうだ、タクシーでも呼んでおこう」
「え、あ、お願いします」
朝食を食べ終え、急いで着替える。何故か臨也がの着替えを手伝い、手を引いて二人を待っていたタクシーに乗り、病院へと向かった。
「まだかな」
臨也は病院の外にいた。柱に背中を預け、ちらちらと中を窺う。
「平日の午前中だし、患者は少ない。すぐに診察室に入れたみたいだけど、ま、検査に時間はかかるか」
独り言を呟き、こつこつと後ろの柱に右足の踵を当てた。
「クハハッ……楽しみだなぁ、楽しみだなぁ、楽しみだなぁ! は昨日の時点であまり実感は無かったみたいだけど、俺は実感したよ! の中に宿る、新しい命。俺との子供!」
気分良く鼻歌を歌っていると、が病院から出て来た。腹部を撫でる手つきはとても優しい。その様子を見た臨也はにっこりと微笑み、を抱きしめた。
「おめでとう!」
「あ、臨也さ……わ、私、妊娠二ヶ月って……!」
「安静にしないとね」
臨也の言葉に首を縦に振り、タクシーを呼んでマンションへと戻る。その間も、二人は手を繋いだままだった。
「あら、帰ったの?」
波江は病院へ行くと言う連絡は受けていたので、ここを訪れたときに二人の姿が無かった事には驚かなかった。
ただ、帰って来た臨也の表情が満面の笑みで、今までにない機嫌の良さだった事には驚いたが。
「……何か、あったのかしら」
機嫌良くキーボードを打つ臨也を尻目に、波江はソファーに座っているに小さな声で話しかけた。
「あ、えっと……私、赤ちゃんが出来たんです」
「それはおめでたい事ね。おめでとう」
「ありがとうございます」
「……それで、あの男はとても気分が良いのね」
ムカつくわ、と舌打ちをし、臨也を睨みつける波江。
「今なら何でも通りそうね。お給料でも上げてもらおうかしら」
立ち上がり、再び仕事に戻る波江。はソファーの背もたれに凭れ、腹部を撫でた。愛おしい我が子。私がお母さんだよ、と心中で呟きながら。
すると、仕事をしていたはずの臨也がの隣に腰を下ろした。仕事は終わったのだろうかと臨也を見ると、目を輝かせてを見ていた。
「のお腹の中に、俺との子供がいるんだよねぇ」
「そうですね」
「今はそう見えないけど……それでもいるんだよねぇ」
撫でているの手の上に自分の手を乗せ、無邪気に笑った。
「ちょっと、何仕事サボってるのよ。ちゃんと仕事しなさいよ」
「うるさいなぁ、波江さんは。俺は今家族サービスをしてるって言うのに」
「殴るわよ」
やれやれと肩を竦め、臨也はデスクへと戻った。臨也の温もりが残っている自分の手に触れ、は人知れず小さな笑みを零した。
――数ヵ月後。
「……そろそろ帰ってくる時間かな?」
時間を確認し、は夕食の準備を始める。
妊娠が発覚してから、臨也の帰りは極端に早くなった。自然と一緒に過ごす時間が長くなり、二人でもうすぐ生まれてくる子供の事をよく話すようになった。
「ふふっ、パパは優しいね」
最初、臨也の帰りが早くなった事を不思議に思い、波江に訊いた事があった。
『あんな奴でも、一児の父親になるって言う自覚はあるみたいよ』
やっぱりムカつくわ、と吐き出していた波江だが、の腹が大きくなるにつれて徐々にだが興味を示していた。そのため、臨也がいない間などは、波江がのサポートをするようになっていた。
「波江さんに、随分助けられたなぁ」
ありがたい、と思っていると、玄関のドアが開いた。
帰って来たのはもちろんこの部屋の主であり、お腹の子供の父親、臨也だ。今日も上機嫌で帰宅した。
「ただいま、」
「おかえりなさい、臨也さん」
「何か変わった事とか無かった?」
「特には……あ、そういえば」
「何?」
「赤ちゃんが、私のお腹を蹴るようになったんですよ」
「へぇ、本当?」
夕食の準備を止め、二人でソファーに座る。臨也が興味津々での大きくなった腹に触れると、とん、と内側から小さな衝撃が伝わって来た。
を通して我が子との意思疎通を楽しむ臨也。
「はははは! 本当に蹴るんだ!」
「元気ですよね、今日も既に何回か蹴ってるんです」
「可愛いなぁ、今のお腹を蹴ってるこの子が、俺達の子供なんだ」
「あと少しで会えるんですね、この子に……」
長かったようで短かったと思う。初めての妊娠で不安だらけだったが、こうして夫である臨也と臨也の秘書をやっている波江に支えてもらえた。
「ありがとう、臨也さん」
――ありがとう、波江さん。
「それは俺の台詞でもあるんだけど?」
「え?」
「でも今は言わない」
の膝に頭を乗せ、膨らんだ腹に耳を近付けた。
「……何か聴こえますか?」
「聴こえない……けど、今間近で蹴られたような気がする」
「近くで臨也さんがいるってわかったんでしょうか……?」
「……例えそうであっても、何か今の蹴りは違うような気がするなぁ」
――気のせいか。
ふぅ、と息を吐き、臨也はの手を握った。
「……まさか、俺が一児の父親になるなんて思わなかったよ」
「臨也さん?」
微笑を浮かべ、握ったの手を腹の上に置く。その上から、臨也は自分の手を重ね、二人で優しく撫でるように動かした。
「父親になるって言うのは、こうも幸せなんだねぇ。知らなかったよ」
「……私も、赤ちゃんが出来てわかりましたよ」
「早く会いたいなぁ、この子と」
撫でる手つきはとても優しい。普段、その手はキーボードを打ったり、ナイフを握ったりと様々な用途に使用されるが、こうも自分が優しくなれるとは臨也自身思ってもいなかった。
これが父親になると言う事なのか――臨也にはわからないが、今まで自分の手には無かった優しさが生まれたのは気のせいでは無い。
「ちょっと寝てもいい?」
「……おやすみなさい、臨也さん」
「おやすみ」
目を瞑る臨也に、は臨也の髪に触れた。
「……おやすみなさい、パパ」
も目を瞑り、部屋には暫しの静寂が訪れた。
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