来良学園への入学を控えたは、静雄の元へと引っ越してきた。引っ越してきたのは昨日。一応、挨拶も兼ねて昔からの友人に会いに行こうと考えたのだ。
しかし、何も考えずに外に出たのがいけなかった。平和島家からその友人宅へ行く道は知っている。だが、引っ越してきた静雄の部屋からはまったくもってわからなかった。どこにどうやって出れば着くのかすらも。
「…迂闊だった。こんなことなら、お兄ちゃんに聞いておけばよかった…」
力無い足取りで人をかき分けて行く。次の角は右なのか、それとも左なのか。あの交差点は渡るのか、渡らないのか。必死で頭の中で地図を思い浮かべるが、さっぱりだった。
友人の住むマンションも、建物の形は覚えていてもは覚えていない。地図に載っているマンション名を見ても、首を傾げることしか出来なかった。
「あぁ、そうだ。メールすれば良いんだ」
迎えに来てもらおうと思い、メール機能を立ち上げ、迎えに来てほしい旨を伝える文章を打った。が、ふと指が止まった。
「…自分が居る場所すらわかっていないのに、迎えになんか来てもらえるわけないよね」
相手は運び屋なので、近くにある建物などを言えばいいのだが、今のはそれを知らない。
携帯を閉じ、深いため息をついた。静雄が仕事から帰って来たときにでも道を聞こうか。そう思い、は来た道を戻ろうと踵を返したそのときだった。
本当にか細い声で聞き取れない程の小ささだったのだが、それは確かにの耳に入ってきた。
元気がないのだろう、それでも弱々しい声で誰かに気付いてもらおうと必死に鳴いているのがわかる。急がなければ――。見知らぬ道を歩くことは不安が募るが、声を聞いたからには動かずにはいられなかった。
「うん、声がどんどん近づいてる…もうすぐだ」
声が最も大きく聞こえる付近で立ち止まり、公園の草むらなどを探し回る。すると、段ボール箱に入れられた小さな黒猫を見つけた。
そっと抱きあげると、その細さに驚きを隠せなかった。
「子猫って…こんなに軽いものなの…?
何日もご飯食べてないんじゃ…。どうしよう、どこか病院に――」
「連れて行ってあげようか」
突如目の前に現れたのは、黒いジャケットを着た男。端正な顔立ちが浮かべている笑顔は爽やかの一言に尽きる。
「い、臨也さん」
「やぁ、ちゃん。まぁ挨拶は置いておこう。
その猫、助けたいんでしょ?俺なら病院のある場所教えてあげれるけど、どうする?」
「別にいいです、自分で行きます」
「わかってないんでしょ?この辺のこと。俺を頼ったほうが良いんじゃないの?」
確かに臨也の言うとおりだ。はこの辺りのことはまったくわかっていない。多分、いや、絶対に臨也を頼ったほうが良いのだろう。
ちらりと子猫に目をやる。この子猫は一刻も早く病院で診てもらなくてはいけない。死なせたくない。助けたい。
「ほら、早くしないとその猫死ぬよ」
「…お、お願いします…」
「そうそう、最初から素直になっておけば良かったんだ」
それじゃ、行こうか。とは左手で子猫を抱き、右手は臨也に握られ歩いて行く。振り解こうとするが、びくともしない。
このような場面を静雄に見られればどうなるか、と考えるだけで寒気がする程だ。臨也との接触は極力避けるように言われていたが、子猫の命には換えられない。
「あぁ、そうだ。今から行く病院は、ちゃんが行こうとしていた所にあるんだ」
「…どういう意味ですか?」
「迷ってたんだろ?」
「なっ…!み、見てたんですか!?」
「クッ…ハハハハハハ!昨日シズちゃんの所に引っ越してきたのも知ってるよ!
それで、挨拶に行こうと思ったんだろう?メールとか電話で済ましておけば良かったのに」
臨也の言葉に言い返すことが出来なかった。今思えば、確かにメールや電話で済ませれば良かった。
だが、会いたかったのだ。頼りになる姉のような友人に。会って、静雄の部屋に住むことになった話やいろんな話をしたかった。ただ、それだけ。それだけなのだ。
「ま、ちゃんも可愛いところあるよね。俺はそんなちゃんが好きなんだけど」
「…私は臨也さんが」
「苦手です、だろ?」
ほら、着いたよ。と臨也が指差す先にはが行こうとしていたマンションが目に入った。ここに病院があるのだろうかと、は素朴な疑問を抱いた。
その疑問はすぐに解消されることになる。そして、の目的も同時に達成された。
「え、セルティ…?」
『じゃないか、どうしたんだ、急に』
黒いライダースーツ、黄色いヘルメット。首なしライダーと恐れられている、彼女。
は、友人のセルティ・ストゥルルソンに会いたかったのだ。会いたかった、と言う前に臨也がの前に出た。
「運び屋、新羅は居る?」
『…お前、静雄に怒られるぞ』
「今はそれどころじゃないんだ。新羅は?」
『居る。けど、一体何の用事だ』
「上がるよ」
の手を引っ張り、臨也は部屋に上がる。横を通り抜けて行く際に、セルティはの左手に抱かれている子猫を見た。よく見ると衰弱している。
――なるほど、そういうことか。子猫の治療を、新羅に頼みに来たんだな。だが、新羅は人間専門じゃないのか?あ、でも子猫も生き物だし、人間と変わらないから大丈夫なのか…?
悩みつつ、セルティも新羅が居るであろうリビングへと向かった。
「…新羅さんって、獣医でした?」
「ううん、違うよ。僕は闇医者さ。まぁでもちゃんの頼みなら治療するよ。
あぁ、治療費は臨也持ちで良いのかな?良いよね?うん、良いに決まってる」
「あぁ、最初からそのつもりだったから別に構わないさ。
それよりも早く治療してくれないか。さっきから手よりも口が動いてるけど」
『あの臨也が自分から治療費を出すなんて…!』
「セルティ、俺だって悪魔じゃないんだ」
『…その笑顔で言われても信用出来ない』
どうせが関わっているからだろう、と打っていたのは消した。例えそれを見せても臨也は「だから何?」と返すだけだろう。
小さくため息をつくかのようにヘルメットを揺らし、セルティは治療を受けている子猫の様子を心配そうに見つめているを見つめた。
――治療を終え、臨也とはセルティの家を後にした。後日、またセルティと会う約束を取り付けて。
「…今日は、ありがとうございました」
「いいよ、こうやってちゃんと二人で居れたからね」
「はぁ…」
「ちゃんって、本当に面白いね。だから一緒に居て飽きないよ。
俺が過去にシズちゃんにやったことを知っていて、シズちゃんから俺に会うことを極力避けるように言われていて、ちゃん自身も俺のことが苦手で、その矛盾を感じながらも、それでも俺とこうして一緒に居る」
「今回は、この子猫…“セルティ”のためです。それ以外は何もないです」
子猫の名前は、セルティからもらった。この子猫は黒猫なのだが、ちょうどセルティも黒のライダースーツに猫耳のようなものがついたヘルメットをしているので、似ている、ということからだ。
セルティも悪い気はしなかった。寧ろ嬉しそうに了承してくれた。そして、その“セルティ”は新羅の治療のかい合って元気に回復していた。
「…けど、本当に臨也さんのお陰で助かりました。治療費も高いのに…」
「いいよ、気にしてない」
「臨也さんが気にしてなくても、私が気になります」
「じゃあお礼してよ」
「何がいいですか?ごは――」
――え?
「これでいいよ、これで。あぁ、確か君のファーストキスになるんだよねぇ?
いやぁ、嬉しいなぁ。ファーストキスの相手になれたなんてさ。シズちゃんに自慢しようか。君の愛しい愛しい女の子の唇を奪っちゃったーって」
「な、何を…!」
「ごちそうさま、ちゃん。後はこの道をまっすぐに進むだけだから」
それじゃあね、と手を振り別れる臨也の後姿を、はただ茫然と見送るだけだった。
――愉快愉快。
――きっとあのファーストキスもシズちゃんのために置いておいたんだろうけど、俺がもらったよ。
だって、悔しいだろ?気になる女の子がシズちゃんなんかを好きになってんだから。シズちゃんもその子のこと好きだし?俺だけやっぱり蚊帳の外って感じでさ。
――でもさ、世の中には、略奪愛、って言う言葉があるんだ。
あぁ、楽しい。何て楽しいんだろう!
自分の唇に触れ、にやりと口元を歪めた。誰も触れたことが無いであろう彼女の唇に一番最初に触れたと言う事実は、誰にも覆せない事実。
胸の内に湧き上がる感情を抑え、臨也は人ごみの中へと消えて行った。
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